まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

2017年に読んだ本のこと

 2017年の振り返りと2018年についての展望について書き始めたものの、きりがなくなったため、これらはまた別の記事によるものとしてここでは読んだ中でも特に印象に残った本を紹介する。
 
高坂正尭「外交感覚」
本書は1977-1995年の約20年間を一月ごとに著者が直面した出来事の考察を記している。40年から20年程前の出来事にもかかわらず既視感にとらわれるのは、20年以上も本質的な問題は解決されていない、もしくは火種となり、今もくすぶり続けているからなのだろう。
解説でも書かれているように、著者は預言者ではない。にもかかわらず、今読んでいても古さを感じさせずに私の心に響くのは、人間の性質はすぐに変わらないからだのだろう。過去に起きた出来事も、今年起こった出来事と分けて考えることはできない。技術が進歩したからといって人間がバージョンアップできるわけではないことを痛感させられる。ボリュームはあるのでとっつきにくいと思われがちだが、手始めに巻頭と巻末の解説と3つの考察を読むことをおすすめする。
 

外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり

 
ある時期を境に少なくともこの国においては「民意」は政治家の権力執行の正当性を補う便利な道具として使われるようになったが、果たして国の違いはあるのだろうか。欧米、フィリピン、中国、そして都知事とそれぞれの民意を後ろ盾とした執行を丁寧に論考している。例えば米大統領選では二大政党の支持が保持されたまま草の根運動したトランプ氏が勝利をおさめており、欧州のポピュリズムとは分けて考える必要がある。ドゥテルテ氏は過去と現在の取り込みに成功した多様性を持つ。中国では絶対的な権力というよりも、市民の動向にところどころ気を配って国家の運営が脅かされないよう消火活動を徹底している。
小池都政についての論考は衆院選の前の段階になされたものだが、東京都は最も所得がが高いために政治から距離を置いていても自分で何とかできる故に遊興を提供する場所に甘んじていても問題ないのだろう、とあきらめの書き方をされている。(残念ながら現実になってしまったが、そのつけを払うのは都民である。)

アステイオン 86  【特集】権力としての民意

玄田有史編「人手不足なのになぜ賃金が上昇しないのか」
 
標題の疑問を様々な切り口で説明を試みた本。16章あるものの、いくつかの章ではともに引用している事柄が行動経済学プロスペクト理論 をふまえた「給与の下方硬直性が上方硬直性を導く」と一見矛盾した解釈である。被雇用者は現時点の給与水準から下がることには抵抗するが、上昇しないことにはあまり注意を払わない。一方雇用者は業績不振があっても、一時金で調整はするものの基本給の弾力性は弱い。これらの複数の要因が絡み合って上方の硬直性はもたらされる。また、人手不足と一億総活躍をふまえて、就業人口が増えたものの、就業体系はフルタイムのそれではない故に平均化すると賃金が下がっているように見えているだけ、という説も提示されている。
 

人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか

・国立社会保障人口問題研究所編 「日本の人口動向とこれからの社会;人口潮流が買える日本と世界」
 
本書では単なる人口だけにとどまらず、その前段階の結婚未婚の分析に始まり超高齢化社会への提言が含まれているなど、想像以上に幅広い問題を取り扱う。地方部では人口減少が顕著だと知識としてはわかってはいるものの、国内の人口ピラミッドで比較した都市部と地方部の人口の違いには驚くしかない。出生率を上げるよりも海外からの働き手が日本に定住し、彼らの子供が日本で子供を育てることで人口減少の推移を緩やかにできるという案に対しては、なるほど最もだとは思わされるが乗り越えるべきハードルは高いだろう。

日本の人口動向とこれからの社会: 人口潮流が変える日本と世界

國分功一郎 「中動態の世界」
 
「暇と退屈の倫理学」の後半に、医学に関連した話題が出てきた。物理学においては理論が実験に先駆けるように、原因がわからない症例も思考が突破口になる可能性を秘めていた。 本書は医学書院からでているぶん、そちらの話に近いかと思いきや、中動態という考えの導入部分をにとどまり、何らかの回答を期待していた人にとっては肩透かしを食らうかもしれない。けれども、ONかOFFかのどちらかしか選べない袋小路に陥っているのであれば、中動態という状態に自ら舵を取ることで、依存状態から遠ざけることができる。分野は異なるが土田健次郎「儒教入門」で目標となる状態になるのは難しいけれども追い求め続ける状態こそがよい、という部分を思い出すなどした。
 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

・三品輝起「すべての雑貨」
 
雑貨店を営む作者が雑貨や思い出をまとめたエッセイ。今年京都の北山に本と雑貨の店を開いたsuzunaさんが読んでいたことをきっかけに手に取った。雑貨について大体誰もがいいイメージとして持っているが、その境界はとても曖昧だ。●●系で括り始めれば語ることはできるが、際限なく置きだすとその店はただのガラクタ屋になり、客足は遠のいてゆく。道端の石ころを売り出したら無能の人の世界になってしまう。果たして雑貨店は専門職なのだろうか?売り手は昔の客だった。しかし売り手にならない客は一体何を求めているのだろうか。経済学部出身の店主は冷ややかに雑貨の世界を見る。こんな店と括られることを拒否しながらもがき続ける姿もあり、子供の頃の生々しい思い出も読み応えがある。

すべての雑貨

・ヒューバート・ドレイファス「コンピュータには何ができないか」
作者のドレイファスは今年に亡くなったが、この本は1972年に出版された。当時のAI研究に対する批判が中心であり、そのAIの盛り上がりを踏まえつつ、このままではAIが人間の領域に侵食することはないとしているが、その理由について述べている。人間は有機物であるし、外部刺激に対する人体の反応の変化は分子レベルでシミュレーションできるのあれば、人間の活動を数値化できるという還元主義的な考えがある。人間を数値やプログラムに置き換えることができるのであれば、機械と行っても差し支えないのだろう。しかし、一方でその身体に宿る各個人の性質の違いなども同じように還元されるものかというとそうではない。(行動経済学のような傾向としての学問はあるかもしれないが)。ドレイファスは、身体、状況、意図や欲求、といった伝統的哲学およびAI研究に欠けており、これこそが人間の知性を成立させるための不可欠な要素だと指摘する。 前回の人工知能ブームで明らかになったのは、人工知能について考えることによって、それでは人間は代替されない役割があるのかを考えるきっかけとなったのだが、今年はスマートスピーカも発売され、AIという言葉が紙面をにぎわせる機会も多かったものの、前回ほど哲学の分野から今のAIを考察する本はにぎわっていないようで残念でもある。
「もしもコンピュータ・パラダイムが強くなり、人々が自分たちを、人工知能研究をモデルとしたデジタル装置と考え始めるならば、人間は機械に似てくるだろう。われわれが危ぶまなければならないのは、優れた知能をもつコンピュータの出現ではなく、劣った知能をもつ人間の出現なのである。」(引用)

コンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判

・Viet Thanh Nguyen「シンパサイザー」
昨年紹介した「ポーランドのボクサー」もそうだったが、直接戦争を体験してはいないけれども、それを体験した身近な存在から話を聞くなどして、今ある自分の存在のあり方を考える本が今年もあった。シンパサイザーを書いたのはアメリカの大学に籍を置きながらベトナムを研究するベトナム人というのも興味深い。本の中で生まれはアメリカだが名前が日本由来の名前が付けられている日系人女性が日本について思いをはせることはないのか?と問いただされる部分があるのだが、彼女にとっては想像できるものは名前だけしかなく、愛想笑いでその場をやりぬける、というのが印象的だった。無理もない事だろう。
翻って国内では、どうだろう。東日本大震災という事件を自分の人生の中でどう解釈するべきか、という本はいくつもあるが、半世紀前の出来事を自分ごとのように引き継いで書かれた作品というのはあるのだろうか。

シンパサイザー


時が過ぎるのではない、人が過ぎるのだ。

「Fall」
 
落ちる
水の音 木の葉
葉は土に 土の色に
やがては帰って行くだろう 鰯雲
旅人はコートのえりをたてて
ぼくらの戸口を通りすぎる

「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」

ぼくらの人生では
日は夜に
ぼくらの魂もまた夕焼けにふるえながら
地平線に落ちていくべきなのに

落ちる 人と鳥と小動物たちは
眠りの世界に
 
 
小物やインテリアが好きな人々にとって雑貨は身近なものではある一方で、特にこだわりがないのであればそれなりのものを手に入れることができる。一体雑貨はどこからきてどこへ行くのか。雑貨店のを営む店主が、雑貨を内側から見た世界の特殊性を著した本だ。そして、この詩はそのうちの一つのエッセイの中に引用されている。
 
雑貨に囲まれて続けて店番をしていると、空間の狭さを感じることがあるという。物理的な面積よりも、ものがそこに長くとどまっていることで新鮮さが失われ、営む者にとっても閉塞感が漂う。それを打破するために作者はがむしゃらに動き続けた。
予定調和に陥らないために動くなかで多くの人が彼の傍を通って行った。気づいたらいつの間にか長い時間がたっていた。
 
***
 
広島から小一時間ほど離れた場所で、屋台に入った。屋台にもいろいろな種類があり、お好み焼きやラーメン、焼き鳥などである。その中でも行きたかったのがおでんの屋台で、理由としては滞在したホテルの朝食で食べたものがおいしかったからだ。
 
多くの屋台が既に営業を開始している中、その屋台は1時間ほど遅れて営業を始める。おでん屋ではあるが、豚足と豚耳がおすすめだという。店主は切り盛りするだけではなく、様子を慎重に観察して客が居心地よく過ごせるよう気を遣う。当たり前のようでいて、これを客ごとに変えていくのはそうそうできるものではない。特に最初に出合った客に対しては。注文するメニューからどれくらいの時間滞在しそうなのか、何が目的で店に来ているのか(メインの食事なのか、つまみ程度なのか)。私も最初に訪れた店では厨房を観察するたちなので、酒は注文しなかった。(屋台なのに酒を頼まないのは確かに目的は限られるだろう)
しかし、注文した豚足が予想以上においしかったので、酒を注文した。店主もそこで私が少し長く滞在するだろうと見越して、話しかけてくる(これらは後で店主から説明を受けた)
 
私の後に二人組が入ってきて(彼らもこの店は初めてだったという)、彼らは最初のうちは二人の中で話が弾んでいたがやがて店主もそれにちょっかいを入れ、それが私のほうに飛び火し(悪い意味ではなく)、常連さんも加わってしばらく話が弾んだ。
この間、何人かの客が来たけれども、店主は理由をつけて断った。たとえ席が空いていたとしても、その場の雰囲気がこわれてしまうのであれば受け入れないという。短期的に見ればお客を断ることは回転数を下げることなので避けるべきなのかもしれないが、そこで出されるもの以上のものを求めてここに来る人たちには受け入れられるのだろう。物を売っているようで別のものを売っている。店主は客から色々な人生相談を受けているらしい。道理で実年齢よりも若く見えた。 
 
はじめてこの店に入った私たち3人は店を出た後に別の場所に移動して食事をして別れた。一晩寝ればあっさり忘れているさ、と一人は言った。確かに彼の名前は忘れてしまった。彼が連呼していた仲間のことは覚えているのだが。
 
朝になると昨日の屋台は跡形もなく消えていた。話した内容はとてつもなく下らなかったが、あの狭い場所で過ごした場所があっさりなくなっているのを見ると少し心細くなる。しかし、何もかも浄化するような神々しい朝の光を見ていると屋台はその対称にあるのだった。聞けばこの屋台はもう半世紀近くも続けているらしい。無数の人たちがあの10人も座れない場所にいたのだろう。時が過ぎるのではない、人が過ぎるのだ。
 

 

すべての雑貨

すべての雑貨

 

 

雲をつかむ話

期日前投票を済ませてきた。
 
選挙の行方は人の動きのみを端的に追うだけで残念ながら政策については語られていない。特に、新たに生まれた党があったためにそちらの動向が取りざたされる傾向にある。開票が始まるまでどうなるかを予想することはしないが、結果が出た後にどうなることが考えられるかをここで書き留めておく。
 
選挙でだれを選ぶのか転職活動と同じだと考えている。新卒採用の多くがポテンシャル能力に焦点を当てているのに対して、転職活動では実績が評価される。
残念ながらこの国の選挙では新しい話題を振りまき、ニュースになることで立ち位置が決まることがある。新人を選ぶのであればともかく、すでにその地位にいた人が適当であるのかを選ぶには、その人が何をやって何をやらなかったのかを振り返る。声高に叫ぶ人たちがこれから何をやるのかはわからないが、彼らがこれまで何をやってきたのかははっきりしているからだ。
 
***
 
民意、という曖昧な言葉が当たり前になったのはもう10年も前のことだろうか。政治家が「民意」という言葉を使うとき、それはたいてい自己を正当化するための補助材料として使う。一方メディアが「民意」という言葉を使うときは、反体制の意味が込められている。開票速報が流れ、大まかな体制が出たときに使われる「民意」という言葉が使われたとき、それは投票結果から帰納的に結果を正当化されただけである。
民意とは、具体的に操作可能な形では存在せず、それ故に為政者も民意によって自己正当化はできない。総ての関係者が民意への接近を巡って永遠の政治過程を続ける。民意は遠近法でいう「消失点」のようなものである”
「小池都政における都民と”民意”」金井利之
 
***
 
CDPの盛り上がりを見ていると、新しいものに対する期待というよりも、忘れ去られていた「民意」を台頭しているかのような雰囲気がある。投票によって議員が選ばれる以上、多数決で選ばれた議員が、より多くの信任を得た、すなわち民意を得たと帰納的に解釈することはできるが、それは積極的なものではなく、消極的(ましなものを)な選択なのだろう。CDPへの盛り上がりは積極的に指示ができる政党という意味で民意という言葉が使われているのかもしれない。
 
とはいえ、CDP は果たして新しいのだろうか。枝野氏は短い時間ではあったが既に政権運営をしている。果たしてその時の彼の働きはどうだっただろうか。彼が寝ずに働いていたという一時の問題ではなく、あれから6年たった今でもまだ決着がついていない事象について彼の働きぶりがどうだったのかを冷静に振り返る必要があるだろう。
 
また、補助や福祉に力を入れる必要があれば、財源が必要になるが、その出所についてはほとんど議論されていないのも気になっている。社会的弱者を守るためには高負担は避けられないのだが、痛みという言葉に過敏になりすぎ、ただ浮ついた言葉だけが先走りしている。
 
***
 
少し前に読んだアステイオン「権力としての民意」特集はアメリカをはじめ、欧州やアジアなどで変わりつつある政治情勢を知ることができたのだが、一人一人が切実に感じていることが政治に反映されず、不満を抱いている人達は全体的に増えてきているようだ。日本においては特に野党は人材が不足しているのに賃金が上昇しないとしてアベノミクスのありかたを批判している。
 
「人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか」では、複数の切り口でその謎の解釈を試みている。中でも賃金の下方硬直性が上方硬直性を招くという意見と、全体的に上がっているものの、人手不足を解消するために労働力を構成する人数が増えた(一億総活躍など)ものの、平均すると正社員の給与との差は大きいために下がっているように見えるという意見が印象に残った。賃金の下方硬直性とは、現状維持バイアスにより、賃金が上昇するよりも、下がることを好む傾向がある。もともと一定の金額賃金が増えたときよりも、減ったときにより幸福度が下がるという性質を私たちは持っているが、この下方硬直性が保たれた結果、賃金の上昇が抑えられている。
 
また、賃金を上げるための経済環境としてOff -JT(Off the Job Training)の重要性が指摘されている。端的にいうと、仕事以外の時間で自分の能力を向上させる機会を設けるのが賃金を上げる手っ取り早い方法だという。一方で人材不足な雇用者側も誰でもいいわけではなく、既に訓練された実績のある人材を欲しいと思っている。売り手市場だからといって大会に出ても自らの無能さを自覚するだけに過ぎない。
 
誰かが釣った魚をいつまでも与え続けるのか、それとも釣り方を教えるのか。 ただ乗りや空虚な希望は開票までの熱狂は続いてもそのあとは堕落を招くだけである。 公約の達成度が振り返られずに、また新たな期待をもとに投票日を迎える。
 

アステイオン 86  【特集】権力としての民意

人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか

 

 

西海岸で訪れた美術館など

しばらく時間が空いてしまったが、サンフランシスコ、シアトル、ポートランドで訪れた美術館などについて書いていく。

SFMOMA (San Francisco)
サンフランシスコにもMoMaがある。肝心のNYのMoMaはまだ訪れたことがない(入場列が多すぎて断念してしまった)のだが、こちらのMoMaは最近Snøhettaが増築を担当して新しく生まれ変わった。

展示階は7階までで、5階にカフェと中庭がある。周りの高層ビルに囲まれる低層のオアシスのようなところだ。丁度に中庭があり、そこでカフェや軽食が楽しめるスペースが併設されている。もちろん、利用しない人にも解放されていて、柔らかなファサードを見ることができる。

移動はエレベーターと階段があるが、階段の部分は2階以上は吹き抜けになっており開放感がある。また、休憩用の椅子と大きい窓が組み合わされているため、サンフランシスコの高層ビル群を見ながら物思いにふけることもできる。

企画展はムンクをしていたが、2月にノルウェーで見たものとそれほど変わらなかったので、常設展だけを見た。訪れた日は土曜日で夜間開館日だったので普段よりも混雑を予想していたのだが、そうでもなかった。日本と圧倒的に違うのは老若男女が思い思いにアートを楽しんでいる風景だ。もちろん騒ぐのとはまた別なのだが。(日本だと静寂が重んじられどこかいつも窮屈に感じてしまう)

肝心のコレクションについては満遍なく楽しめた。美術館に訪れたときの出会いでよいのは、自分が知らなかったが現地で好きになる作家や作品に出会うことだ。常設展の範囲だが企画展として展開されていたのがイサム・ノグチで、名前はもちろん知っているが彼の本来の仕事(インテリアデザインや彫刻ではなく建築家やランドスケープデザイン)についてはほとんど知らなかったので、よい機会となった。公園に配置されていた遊具も彼自身が考えていたのだが、はじめて遊具を見た子供が興味を持ってそこに向かうにはどういうデザインのものがいいのかを考えた結果として得られた形になっていた。もちろん後援全体としてのプロポーションも考慮されている。

上層はインスタレーションが多く、下の階は階が中心だったが、特にフリーダ・カーロの自分と夫を描いた夫婦像がなかなかよかった。フリーダの多くは彼女自身の自画像を思い浮かべてしまい、依然見た自伝的映画でもあったような顔そのものが生き様を表している絵そのものは嫌いではない。彼女の夫は背が高く恰幅のよい男で、夫婦の絵として描くと彼女の姿は夫に比べて小さくなる。あえて背伸びして対等な大きさで描いてしまうのもひとつの手だとは思うものの、それをせず正直に二人の姿を描いていたのが印象的だった。

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○De Young (San Francisco)
デヤング美術館は主にアフリカやオセアニアのコレクションをしている美術館だ。設計はTate Modernでも有名なHerzog&de Meuron 。青山にあるPRADAやMIUMIUなども彼らの設計だ。美術館の形は事前に知っていたものの、スケール感や空間の使われ方は訪れてみないとわからない。Parkの中にある美術館だが、日本のParkと同じ意味合いで捉えてしまうとそのスケールの大きさに圧倒されてしまう。原宿の代々木公園や世田谷の砧公園がParkといってもいいだろうが、それでもその美術館の大きさに驚く。遠目からは銅を切り出した塊のように重々しいのだが、近づいてみると規則的に(一部不規則に)銅板に穴があけられており、軽快さも感じられる。正面にはキース・へリングの作品がある。

こちらも常設展だけにした。De Youngはキルト作家のようだ。キルト自体これまで注目してこなかったが、細長く切られたキルトを微妙なずれを含めて大きな正方形に作り上げた作品は錯視図形の用でもあったが、見るものの視線を飽きさせるものではなく、刺激的だったので思わず写真をたくさん撮ってしまった。

アフリカ出身のアーティストの作品もこれまで注意してみていなかったのだが彼らの作品もまた興味深いものだった。フリーだと同じく夫婦像を描いている作品があったが(Mose Tolliver 「Me & Willie Mae」) 、色遣いが見慣れた西洋画とは全く異なっていた。とはいえ、見ているうちにデフォルメされた顔と作品に引き込まれていくようだった。また、彼はピカソの泣く女をモチーフにした作品を描いており、これもまた目に残る色合いだった。

二階には絵画作品もあったが、アメリカにも印象派の風は届いていたようだ。中南米の祈祷に用いられたお面は人と動物のものがあったが、圧倒的に動物のものが面白かった。

離れに展望台もあったが、高所から眺めてみるとサンフランシスコはあらためて坂の多い場所であることがよくわかる。

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○Seattle Art Museum(Seattle)

Yayoi Kusama: Infinity Mirrors at Seattle Art Museum - SAM

企画展は草間禰生の鏡を使ったアートが中心だ。もともとはワシントンの美術館で最初に開催されたものの巡回展なのだが、instagramの拡散も手伝ってか人気の多い展覧会になっている。すでにどのようなものが見られるのかわかっていながらも、体験するのにいとわないのはアメリカの力なのだろうか。どの展示も行列だったので一人当たり20秒程度しか見られない高速回転だったのが残念だったが致し方ないだろう。
ガラスの箱の展示以外にも何点か作品はあったが、空間を色で埋め尽くす作品(鑑賞者はカラフルなシールをもらい、部屋の中のどこかに貼り付ける)は長い目で見ると展示空間の色が変わっていくのだろうし、その変化を見せても面白いのではないかとも思った。

草間さんのインタビューが見られる部分もあったのだが、齢80を超えてもなお、愛と平和について語る姿は長い活動を超えてもなお彼女の活動に終わりはないことを表している。理想を語る口調は年相応だったかもしれないが、目の輝きはまだ現役そのものだった。

常設展では絵画中心だったように思う。空間はSFMOMAのほうがよかったが、オスロでも見たけれどもKifer Anselmの作品にはやはり圧倒される。また、Morris Gravesの作品はゴッホのとモディリアーニが入り混じったような存在感があり、よい出会いになった。

 ここにもアボリジニの作品が展示されていたが、先ほど見た草間さんの作品を髣髴とさせるものだった。色が爆発している。また、ここでもアフリカの祈祷の展示があり、これがまたよかった。日本にもひょっとこがあるが、近いものを感じる。

 

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○Maison Pittock(Portland)

ピトック邸はポートランドの丘の上にある過去に複数の家族が住んでいた邸宅である。誰も住まなくなった後に倒壊の危機に陥り一時は取り壊しも検討されたが、地元の方の協力もあって、改修され今に至る。すばらしいのは、邸宅の小物類が近所のアンティークショップなどの協力もあり進んでこの建物の保存に動いた。

丘の上からの景色はここはアメリカなのか?と思うほどの富士山を望む遠景からの風景と似ていたのだった。眼下に見える街と遠くにそびえる山。ポートランドを丘から見下ろすと、自然が多い町なのだな、とわかる。ピトック邸の庭はバラ園になっており、芝生の日陰では人々が思い思いにすごしていた。眺めのよい場所には桂がうわっており、京都の貴船神社で見た風景を思い出しながらしばしぼんやりした。

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○日本庭園(Portland)
隈研吾によるデザイン。週末に訪れたが混んでいた。けれども、意匠や施工の調整がうまくいっていないのか、全体的な精度は根津美術館に劣る。雨が多い気候というのもあるかもしれない。竣工して間もないが木にはカビが生えていた。材質や塗装は果たして適切だったのだろうか。
根津美術館と同じく飲食ができる離れがあるが、味の素によるものだった。歩いていると日本庭園といいながらも、日本にある庭園をそのまま移植したのではないのだという違和感を感じ始める。たとえば枯山水は高台から見下ろすものだったか、であったり、池は鯉と触れ合うためのものだったか、である。けれども私達がいろいろな国に対する憧れもこのようなものであって、断片的で違和感のあるものなのだろう。

 

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西海岸にて

会社の研修と休暇で1週間ほど西海岸(San Francisico、Seattle、Portland)へいってきた。その場を訪れて感じたことなどを以下かいていく。

 

・San Francisco
日本よりもおおよそ5度から10度ほど寒かった。特に朝晩が。

SFは坂が多く、東京の●●ヒルズとヒルがついているが、あれに比べると傾斜の角度は比べ物にならないほど急である。初台や神戸の元町あたりの坂あたりを想定しておくといいのかもしれない。

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◆多国籍料理
おそらく最初にやってきた各国の移民たちがそこで生活した名残だろう。サンフランシスコはとにかく坂が多く、生活するには厳しい環境だ。たとえばベトナムであったり、イタリアであったり、中華だったり。ニカラグアの料理も食べられる店もある。
初めて訪れる町には徒歩で歩いてその町がそんな場所なのかを観察するのが一番最初にやることなのだけれども、2月に訪れたオスロが面白く感じたように、若干危険に感じる場所でありながらも、こじゃれた店がぽつぽつある、というのが面白い町の定義だと思っている。一時期日本に上陸するといわれていたにもかかわらず立ち消えとなったTartine Bakeryがあるエリアはてっきりハイソサエティなエリアかと思いきや、周辺のミッションストリート(夜の駅は非常に危険、昼でも危険 ドラッグのにおいがただよう)には雑多な雰囲気があり、そのごちゃごちゃした感じがアジアの雰囲気を思い出す。

ちなみに研修は沖仲士であるエリック・ホッファーの「波止場日記」の舞台であるFisherman's Wharfだったのだが、残念ながら観光地化されているそのエリアはあまりよいところではなかった。

しかしそういうところでも、ひとつ大通りを越えると静かできれいな場所があったりするので面白い。

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ところどころに路上生活者がいるが、ヨーロッパのそれとは違い、静かにお金を落としてくれるのを待つスタイルだ。チップを支払う習慣があるゆえかもしれない。

スーパーに寄ってみるとレジはおおむね自動化されており、セルフ式でやるようになっている。日本でも一部の店では導入されているものの、まだ割合としてはまだ少ない。しかし、店員が少なくなったわけではなく、別の業務を行っているようだった。

 

◆公共機関
空港からは電車とバスがある。San Franciscoの中心部のUnion Squareあたりは電車の最寄り駅はあるものの、それよりも南側のエリアにはBusで行くしかない。もしくはTaxiやUberなど。Busはそれぞれの通り(St)にとまるので、地図であらかじめ確認しておけばいいのだが、各駅停車になりがちなので、急いでいく用事があるのであれば、Uberを使ったほうがいいだろう。しかし、バスもヨーロッパの大方の交通機関と同様に最初の登場から90分有効のため、日本のそれと比べると使い勝手はいい。

ちなみに、バスを止めるボタンはここでは昔の名残でひもを引っ張ると次止まるランプが点灯するようになっている。最新車両ではボタンがいくつかついているものもあるが、過去の習慣はそれほど簡単に断ちにくいものなのだな、と思わされる。

 

・Seattle
シアトルもまたSan Francisco同様に坂の町である。海沿いのPike Street marketは日本で言う築地のようなものかと思いきや、オープン時間は観光客向けに後ろ倒しされており、、多くの店は昼前にならないと開いていない。名物の店はいくつかあるのだが、結局自分がそこで買ったのは本だった。古本屋もあるのだ。

 

Amazon Day1
Amazonの自社ビルはすでに出来上がったものもあるが、Sphereと呼ばれる球状の施設はまだ完成はしていないようだ。熱帯植物が生えていそうな雰囲気である。ちなみに、Amazonian向けに毎朝バナナを1本つけている。が、ネイバーフッドを大切にするために、Amazonianでもバナナはもらえるそうだ。(バナナ目当てに来る人が多かったらしい)

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www.seattletimes.com

レジがないと話題のAmazon Goもあったが、残念ながら従業員でないと入れないようだ。しかし、路面からはバックヤードで食べ物を作っている人たちがみえ、少しだけほっとしたのも事実ではある。(完全に自動化されていないということで)

エントランスフロアは入ることができ、kindleのこれまでの世代が壁に飾られているのだが、よく考えてみたらProduct自身はこれくらいしかないんだよな、と思い知らされる。若干殺風景ではあった。

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◆中央図書館
Rem Koolhaasが率いるOMAが手がけた図書館。あまりにも奇抜すぎるその外観が目を引くのだが、大通りからのアプローチは特別違和感を覚えない。それよりも、高層の建物ができつつある中心部である。内部は10F建てになっていて、図書館のほかにもハローワークもあり、誰でも自由に入れるし、Wifiも飛んでいるのでいつまでもいられる。(ロンドンを旅行したときにはTate Modernに入り浸っていた)
シアトルには1日しかいなかったのだが、閉館のときまでいた。(常にそこにいたわけではなかったが)静まり返った図書館にキーボードをたたく音が聞こえる。近づいてみるとキーボードで何かを打っていると思いきや規則的なものしか聞こえてこないので、気晴らしにたたいているのだろう。Kill timeという言葉を思い出す。

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Dunkirk
クリストファーノーランの最新作をIMAXの球状シアターで見た。

Pacific Science Center - Home of Terracotta Warriors of the First Emperor

この日(21日)が初日だったので、1時間以上前に行くと、すでに会場を待ちわびた人たちが列になって床に座っている。彼らはおしゃべりに興じており、その雰囲気は日本ではめったに見られないものだった。ポップコーンとコークを夕食代わりにして開場するのを待ちわびた。
映画の内容は予告編からわかるように戦争映画である。内容についてはまだ日本公開は先なので詳細については差し控えるけれども、映画の中で語られるDunkirkという岸辺に取り残された兵士をドイツの攻撃から避難する為の立場の違う兵士達の戦いについて臨場感あふれる描写で描かれていた。ノーラン監督の作品は長いものが多いが(特にバットマンシリーズは、今回は100分ほどの作品だったが、映画館にいながらも戦争の中に閉じ込められたような感覚があり、この恐怖が早く去ってほしい(終わってほしい)、と思う瞬間が何度か訪れた。今回もサウンドトラックはハンス・ジマーで、時計の刻み音を効果的に使っており、緊張感が最後まで途切れない、文字通り引き込まれる体験だった。日本では9月公開。

 

・Portland

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アメリカ人が今一番移住したい町だというポートランド、果たしてほかの町とどう違うのか。2日しか滞在できなかったのでその理由は定かではないのだが、ワンブロックの距離もほかの町と比べると小さい60mほどである。公園があって(といっても日本でいう公園とは違って、芝生と大きな木が囲まれており、木陰にシートを敷いて休んでいる)、少し自転車で走れば森がある。(バス停のそばの草むらにはパクチーの一種が自生していた)森の中にある日本庭園(最近再オープン、隈研吾設計 青山にある根津美術館を髣髴とさせるつくりになっている。完成度は根津のほうが高い)

地理的にはシアトルとサンフランシスコの中間にあるのだが、気候はポートランドが一番暑かった。

なぜこの場所に引き寄せられるのか。他の町同様、町全体は公共機関よりも車を使って移動した方が効果的ではある。そして、他の町と同じくまたポートランドも中心部から離れたところのほうが良い店がある。といってもポートランドは大きく分けて4つの地域があり、それぞれ特徴のある部分なのだが、サンフランシスコと同様、というかほかの多くの町にもいえることではあるが、中心部の観光客がよく訪れる場所よりも、地元の人がよく訪れる場所のほうがよいものに出会える確率が高くなる。

 

◆Les caves
洞窟と名づけられたバーにはワインとそれに合うつまみを出してくれる店がある。オーナー自身もワインを作っているため、1を聞くと10以上のことが返ってくる。日本人の若い層は最近ワインを飲まないと聞くがどうなのか?と質問されたがこの答えには迷ってしまった。確かにビールのほうが豊富にあるのだが、それでも好きな人は好きではある。選択肢が豊富な分取り立てて固執することもない。私はどれでも行ける口だといった。つまみはそれなりだがワインの味は確かだった。ちなみに、アメリカなのでアメリカのワインだけを置いているかというとそう言うわけでもなく、世界の酒で特にオーナーがほれ込んでいる酒を選んでいる(とどうしても西側のものが上がってくる。)

アメリカ人が一番移住したい町といえども、路上生活者の姿は点在している(ほかの年比べると少ないが。人気があるためなのか、アクティブに取引を持ちかけられた。

 

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10日間程度の仕事と休暇で3箇所を回るのは正直体の負担が大きかった。どの町も初訪問だったためにいつもながらのもったいない病が発動してひとまずあちこち歩いてみることをする。すると、通り(Street)が変わるだけで環境もよくなったり悪くなったり、そういうものが歩いているだけでもよくわかるのが面白い。

◆Neighborhood
いずれのところも気さくに話かけてくれる(というか会話をはじめられるような雰囲気)ができていた。大体の店にはいると、How's going?と声をかけられる。バスを乗っていても、「あなたの服いいわね」とか「そのタトゥすてきだわ」のような会話がなされる。たいていそれらはすぐ終わってしまうのだが、日本でこれをやられるとたいてい変な目で見られるのはいうまでもない。日本ではたいてい挨拶をするのは仲間内であるものの、欧米では相手が危険ではないことを確認するために挨拶するというのを思い出した。

ポートランドの日本庭園の近くには美しく整えられた庭を持つ家が並んでいたが、その一角に、この場所は隣人の目によって犯罪を防いでいます。という標識があった。監視カメラを置いておけば一見にみえるが、そうではないことは以前日本で起きた事件を思い出せばわかるだろう(比較的警備の高いマンションで高齢者が殺害された事件がおきたが、しばらく発見が遅れた。)。いくらカメラがあっても何かが起こってからではたいてい遅いのであって、人の目による不連続だが継続的な監視は効果的だったりする。

とはいえ毎度毎度調子はどう?ときかれて疲れないわけではない。たまには一人になりたいときもある。

 

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◆Make America great againとオールジャパン

トランプ氏が声高にアメリカ第一主義を掲げている。新聞などを読んでいると内向き思考などど批判されているのが常だが、アメリカという国は人種のるつぼと呼ばれる一昔前と変わっておらず、多国籍のレストランが生き残っているのを見るにつけ、それこそがアメリカなのだ、とわかる。トランプ氏がアメリカに工場を作る外資を自分の手柄にする光景は大げさなパフォーマンスに写るが、ここで重要なのはアメリカのためにやってくれる企業は国内の企業出なくてもいいということだ。(彼はすでに国内の大手IT企業のCEOを集めて懇願はしているようだが、節税対策で画策している彼らにとっては難しい判断だろう、その点 ソフトバンクやアリババや鴻海の動きはしたたかに見える。

一方のオールジャパンは文字通り日本企業の集合体で何とかやっていく、という姿勢だ。そこには昔の精神論で大義名分で何とか(途中で脱落者が出ようが)頑張る、という国粋主義的な考えが透けて見える。外資の受け入れを断って成長が遅れたのは今に始まったことではなかった。

自国の発展のために外国の力を借りるのか、それとも自前主義でやるのか、答えは言わずもがなだが、数年ののちにその違いは明白になるだろう。

グランドツアー報告会(ミュンスター、ドクメンタ)

松戸のParadise airにて2つの国際アート展の長谷川新さんによる報告会があったので聞いてきた。

以下ざっくりとしたまとめ

 
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ミュンスター(Skulptur Projekte)
●成り立ち
10年に一度開かれる。1977年が最初 始まりは、George Rickeyが動く彫刻をMunsterに作ったところ、市民の反発が起きた。公共の妥当性を確かめるために彫刻の展示を行うこととなった。
 
今回の展覧会のCurator Kasper König  art itの記事が好きでなんでも読んでいる。
PublicとScluputureの意味を問う。10年経つとECからEUになったり、彫刻自体の動きの変化も見られて丁度良い。Documentaが5年で、同時期に開催されたときにとても観客が多かったので、こちらも5年周期にしたい、という申し出があったが、裁判すると訴えて、立ち消えとなった。
ミュンスターという町はWW2にイギリスの爆撃を受けほとんど無の状態から立ち上がった。しかし下水道はそのまま残っていたので元の街並みが複製されている。
 
●Curator: Marianne Wagnerとの対話
・パンフレットを15€にするのに市議会と戦った。
・パンフレットに作品の写真を入れることが大事だったので、オープンの二日前に一斉に撮りに行かせた。きちんと配置されているかは関係ない。きちんとした写真は後でアーティストが雇ったプロの写真家がやってくれるでしょうから。
 
パンフレットは会場になかったが、手に持った感じだと週刊少年ジャンプほどの分厚さがあるが、それと同じくらいの軽さで持ち運びやすい。カタログをめくっているとインクが手につくが、それがまたよい。
ネガティブなことをポジティブに言い換えることが大事(1回目)
展示は近くで見られるものと、遠くで見られるものの動線を分けられている。遠くで見られるものによい作品を置いておく。遠くの作品は自転車で回ることができる。
 
●印象に残った展示
・Ayşe Erkmen    On Water
島と島のあいだを底上げして少しの水につかりながら歩けるようにした、参加者に人気。シンプルなものを作るのに多大な手続きが必要になった。(Curator: Marianne の話 )
 
・Pierre Huyghe   After Alive Ahead

www.youtube.com

各アーティストの予算は400万だが、まったく足りない。たとえ赤字になってもそこで展示することに意義がある。1億円集めてプロジェクトを作る。
廃墟となったスケートリンクビオトープにする。ミツバチの巣や魚たちが住む。 天井は遠隔開放し、そこからミツバチが外に出る。VRも利用したイメージも見ることができる。
 
・Jeremy Deller   Speak to the Earth and it will tell you
10年前に招待された時のMunsterで庭を造った。近所の50組の家族に10年間の日記をつけてしまう。
淡々とつけるもの、途中で止めるもの、途中放置されていたが今回の展示に向けて再度付け始める家族などそれぞれの家族の模様が見える。
 
・荒川医 (Ai Arakawa)
展示早々に作品が盗まれてしまったが、ポジティブな言葉に直して共感を得る。
ネガティブなことをポジティブに言い換えるのが大事(2回目)
 
田中功起(Koki Tanaka) How to live together and live unknown
Munsterに住む出身は各々別々の8人の移民と少しの時間、時を共有しその断片を記す。最終的に車の前方に移民二人が座り、後ろに田中が座る。空間構成がよい。
Production notes
 
・Michael Smith Not quite underground
Tatooの展示とその場で体験。会場にはPVが流れており、老人の集団がMunsterを回ってこの会場でTatoo を入れて帰っていく。感動してその場にいるスタッフに伝えたが、スタッフはそう思っておらず、議論は平行線のままだった。解説との落差がある。
 
・その他
歌舞伎をモチーフにしたイベントもあった。内容はまったく関係なく、くだらなかったが何か少し面白い出し物をすることで、その場の雰囲気を良くする効果があるのかもしれない。
 
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●Documenta 14(ドイツ・Kasselおよびギリシャ・Anthem
5年おきに開催される。キーワード人物 Arnold Bode/Harald Szeemann/Jan Hoet
WWII中に自分の大切なアーティストが弾圧されたことへの反抗から始まっている。
「人類について本気で考える」 反商業主義
 
前回のdocumenta13では「人間を排除する」をテーマにした部屋があった。また、国内にとどまらず巡回する展覧会を行った。24時間ぶっ続けで出展アーティストの紹介を行った。
今回Tour guideがあるものの、作品紹介はせず、参加者を作品をcriticするというスタイ
ル。好みは分かれそう。
learning from Anthem アテネとカッセルほぼ同じ作品が置かれているが、違う構成で見ることができ、remixされていることがわかる。
 
キャプションアーティストの名前が大理石の上に書かれている(本物の大理石ではないのかもしれない)国籍が書いていないのは大きい。
Whispering Campain 至るところに無数の声が聞こえる。xxxxhours
 
・Neue Galerie
 
・Whispering Campaign
スピーカーから無数の声が聞こえてくる。
 
・Maria Eichhorn
 
グリム童話のマイノリティー
アクロポリス宮殿 ギリシャを理想化+政治利用している。
 
ドクメンタでもミュンスター同様展示会場の配置をばらばらに散らしている。わざと移民が多い場所を通るように組まれている。地図は見にくい。
 
Issei Sagawa ガルバニズムで死刑を免れた人物のインタビュー。
豆腐工場で今それをやる意味はあるのか。いや、ないだろう。
タイトルに込められた意味も生理的に良いものではなかった。Commensal
(An association between two organism in which one benefits and the other derives nether benefit nor harm 意味はoxford dictionary から引用)
 
・Pnathenon of books
発禁本を集めて塔にする。検閲に反対するという意図が込められており、 ハリーポッター(ムスリムでは禁止されている)やcatcher in the ryeが多い。
しかし残念なことにアジアの本がない。(東南アジアで終わっている)Divideされている。
 
●全体の感想
当初やろうとしていたCornelius Gurlittのコレクションを展示することが本来の目的だったが事前交渉が決裂してしまったために方向転換を迫られた。
Cornelius Gurlitt ナチスに美術作品を流した悪人として当初は認識されていた。彼の妹も悲観して自殺しまったが、実は彼は多くの作品を守っていたのだった。しかし彼の死去、作品は元の持ち主のところに戻されている。
 
方向転換を迫られた結果、5人のキュレーターで分担してやっている。それがこの展示を中途半端なものにしてしまった。アテネのアーティストが6割を占めており、クオリティを下げている部分もあるが、それは特に重きを置いていないという。(Adam Szymczykがぶっちゃけている美術手帖を見よ)
 
音楽、テキスタイルの展示が多い。中南米の文字がない場所では結び目で意味を伝えているらしいのだが展示はみただけで何かよくわからない。「そうですか」
 
個々の作品を見るのではなく、全体的な構成を見るのがいいのかもしれない。
 
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以下参加した感想。報告会という形ではあったが、それほど堅苦しいものではなく、即興的に会場で撮った写真を見ながら限られた時間で全体的な雰囲気を説明するものだった。
海外の芸術祭は見たことがないが国内で開かれたものは越後妻有、茨城県北に行った。
話を聞いただけで単純な比較はできないが、大きな違いは芸術祭をやる意義がまったく異なるのだった。国内で開かれているもののパンフレットなどを見ても、その違いは大きく、スタンプラリーや食事処の紹介があると、何が主体なのかを考えたときに動員数にのみ目を奪われてしまう。もちろんそれがわかりやすい成果の指標になりうるのだが。当然開催するには地元住民や行政の協力は必要であるが、上記の二つは過去にあった負の歴史や事象への抵抗として始まっている。開催のインターバルは日本のものよりも長いが、意思は脈々と受け継がれている。(多和田葉子の最新作「百年の散歩」はベルリンの通りを舞台にした小説だが、ドイツにはもう同じ過ちをしないための努力がそこかしこにみられる)
一方、私がこれまで見てきた展示で過去の歴史に基づいた作品を見ることは少ない。越後妻有であれば土石流が起きた現場であったり、茨城県北であれば鯨が丘の窓を利用した住人の声をポップに展示した作品位だ。決して歴史がないわけではない。例えばかつて岡倉天心が設計した六角堂は東日本大震災津波に巻き込まれて再建されたばかりだった。どちらかというとつらいものはなるべく触れないようにしておくことが和を好む国民性に即しているのだろうか、それでも声を上げない限り沈黙が長くなればなるほど確実に忘れていく。( 広島をテーマにしたChim↑Pom作品が多くの批判にさらされたことがあったが、日常を不安定化するものに対する恐れは大きいようだ。けれども、波風が立てないと忘れ去られていく「芸術実行犯」)
Munsterの展示を見る前に長谷川さんはMarianneと話して、この芸術祭の期待値が上がったと話していたが、おそらくそういうことなのだろう。存在意義がある芸術祭は強い。

美術手帖 2017年7月号

百年の散歩

 

fakeイベントとの付き合い方

最近立て続けにフェイクイベントが起こった。具体的にはfbやTwitterなどで盛り上がりを見せており、実際に見に行くとそれなりに人はいるものの、中身が伴っていない展示やサービスだ。
これらに共通して行われていたことは、fbやTwitterなどでの感想があふれると同時に、Webメディアでも取り上げられている。会場は何かと盛り上がってはいるものの、そこには何もないし、さらにはそこに行ったことで逆に損失を被る事件も出てきている。
 
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●秘境の東京、そこで生えている
 
入場料を取った割には何もない展示だった。確かに労力はかかっていることはわかるが、それを必然性がまったくと言っていいほど感じられなかったのだった。写真を撮ってシェアすることも推奨されていたが、私はカメラを持ちつつも何も取ることがなかった。ただ空っぽな空間に墨で植物が書かれていた。これらの植物を書くことについての無数の時間については思いを巡らせるものの、果たしてこれが作品としてよいものかと問われるとそれは別問題だ。丁度それは長時間労働で出した成果物だから無条件にそれはよいものである、のと同等である。だから、私はこの展示を見おわったあと、「よくもわるくも日本的」とつぶやいた。
 
その時に改めて思ったのは、自分が選んでいるかのように見えて、誰かの意見を参考にしているし、この人がいいというのであれば、間違いはないだろう、と判断をしているということだった。
私自身も3331の展示に訪れたのは原研哉さんが劇押ししていたのでその場所に行った。(もちろんそこに行かないと見えないものもある)とはいえ、他に行っていたアノニマスな方々の感想を見てもそれほど食指を動かされることはなかったので、もしかしたら、という気持ちにはなっていた。ただ、こればかりは現実に見てみないとわからないので行ってみたが、結果的には決して安くはない入場料が無駄になってしまった。入場料の問題ではないけれども無料で入れるggg(銀座グラフィックギャラリー)の展示のほうが圧倒的に密度は高かったことを付け加えておく。
 
私が見た限りでは菊地敦己さんだけがはっきりとこれは広報の勝利だと言っていたが、他の多くの方は原研哉さんに気を使ってなのか「熱量」という言葉を使って誉めているような印象を持った。

 

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引き続いて行われたブラックボックス展も感想はあふれていた。しかし、これも先の3331展と同じようにほとんど中身のない感想でにあふれていた。アートに敏感なアカウントの方で実際に行かれた方もいたようだけれども、それでも3331の展示で学んでいたことは間違ってはいなかった。また、女性を狙った犯罪まで起こっており、予見できなかった事態だとしてもこの責任者は主催者にある。
また、参加者に嘘の感想を書くことを奨励されたが、この場合自分が嘘をつくことは主催者にとっての関係は保たれるかもしれないが、主催者ー参加者以外の外部との関係に対して嘘をつくことは果たして許されるのか?おそらく参加者はジレンマに陥ったために可もなく不可もなく曖昧な感想をつぶやいていたのだとおもわれるが、このジレンマを作ってしまうことも含めて悪質である。
 
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●CASH
 
CASHという高利貸しアプリについては私自身も一目でこれはアウトだと思ったのですぐにつぶやいたし、詳細については専門家等で語られている通りだ。
こちらについてはサービスの開始の際にfashion snapやTwitterモーメントで取り上げられていた。残念ながらこれらのメディアはこのサービスが高利貸しではないことに気付かずに依頼があったから受けたのだろう。他人の視点が入ることで抑止力も期待できるはずであるだろうとは思っていたが、そうはならなかったのが残念である。
 
規約を読めばわかるように、利用者の立場は圧倒的に弱く、利用すればその規約に同意したとみなされる符号契約で、しかもこの規約の背後に顧問法律事務所の存在があった。(今は消えている)
 
クレジットカードも分割支払いをして金利をはらっている人が一定数いるために成り立っている。貧テックという言葉がもう広まってしまったが、金の知識がない人にとってこれらのサービスは弱者をより弱い立場にする悪質なサービスそのものだった。彼らのニーズにこたえているかもしれないが、正しい知識を持たない人をさらに弱い立場にしてしまう。幸い多くの人がこのサービスの悪質な部分を追求したおかげで今は提供を中断している。
 
特にお金のサービスについては弁護士の方のブログにもあったように、目には見えていない線から先に入ってはいけないものがある。それは誰もやりたいのにやらないのではなく、やってしまったら人間の良心が欠落しているのであった。しかしBANKはボーダーを越えた。(彼らがもうすぐ始めようとしていた別のサービス;ペイデイローンは、返済能力がないのに返済能力以上の貸し付けをして結果的に金融危機の引き金となった)
 
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こうしたイベントやサービスに近づかなくていいようにするためにはどうすべきか。トランプ氏は名指ししてfake newsと言っているが、CASHの時のようにWebニュース媒体は真偽の判断までできる能力はないと言ってしまうことしかできないだろう。これは数年前にごたごたしたオリンピックの会場問題や豊洲と築地問題とも近いものを感じている。これらについては大手新聞媒体でも専門記者を社内に抱えていないためなのか、政治の情報と技術的な確からしさを正しく伝えていないように思える。(日経新聞は以前データの読み方の入門講座と称して相関関係を因果関係と堂々と間違えていたが、人手不足もこのような場面に出てきているのかもしれない)
 
少し前にフェイクニュースとの付き合い方というテーマにそって海外と日本の有識者が意見を述べていた。日本は正しい情報を発信し続けるべきだ、というのに対して、フェイクニュースがあふれているロシアとの国境に近い国では、CASHの時のようにひたすら間違っていることを言い続けることだそうだ。また、別のメディアでは独立の機関がそのサイトが発信する信頼性を評価しているという。
アメリカの選挙戦でも無数のフェイクニュースがにぎわった一方、フェイクニュースやイベントが増えてきている日本でもこれらの対処をする必要が出てきていると改めて感じた最近の出来事だった。
 

火車 (新潮文庫)

クレジットカードの多重債務を題材にした宮部みゆきの小説、発売は1992年だが改めて読み直したい。