まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

一本の葦として

2015年はまだ1月しかたっていないのに、この一月に世界で起こっているニュースを目にする度に、後々振り返った時にこの一年が大きな転換点を迎えているように感じる。
 
マクルーハンの言葉に「バックミラーを通して現代を見る。我々は未来に向かって後ろ向きに進んでいく(過去を通してしか現代を語れない)」というのがあるけれど、「時代なんて、パッと変わる」(秋山晶)というコピーのように、今年を振り返るころにはさらに色々なことが起きているのかもしれない。
 
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テレビはもっぱら録画で見ているため、リアルタイムで見るということはない。
それでもTwitterに濁流のように流れてくるニュースを目にする度に文字通り釘づけになる。「怖いもの見たさ」という言葉があるが、見たくはないはずなのに、ついつい検索窓に文字を叩きこんで探してしまいそうになるほど前のめりになっている状況はさすがにおかしいので、切断した。
 
そして目の前にある本に目を落とす。
 
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私の好きな言葉の一つに「agree to disagree」がある。訳すと「同意しないことに同意する」だ。意見の相違がある場合、何かと片方の正しさばかり、もしくは相手のあらさがしによる言いくるのを見かける。しかし、背景や価値観、信念が異なれば、同意できないことは数多くある。もちろん、場面によってはまとめる必要があるものもあるだろうが、何もかもが白黒つけられるものでもない。
 
一方の常識から見れば「なんだか変だ」と思えることも、もう一方の側から見ると別の考えに基づいて行動することもある。
 
そのすれ違いは両者の常識(前提条件)を知らなければならない。その一つとして宗教がある。今回の一連の出来事で曖昧にしか知らなかったイスラム教について解説している本を読んでいる。読み始める前に、起こった出来事を私なりに考え、「弱者(マイノリティ)の受け皿としてのイスラム教」があるのではないか、という仮説を立てていたのだがあながち的外れでもなさそうだ。(その他今回の件と関連していると思われる別の方面で読んでいる本もあるのだけれど、それはまた別の機会に書いてみたい)
 
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「人間は一本の葦である」はあまりにも有名な言葉である。たかが一本の葦、それでも一本の葦でもある。風に吹かれればなびくこともあるかもしれない。
とにかく「不安」になると「英雄」と評してあがめたくなるものだし、大義名分と評して動きたくもなる。それでも冷静さと先読みを失った行動の先になにがあったのか、は既に忘れ去られようとしている。未来に何が起こるかは分からないが、過去から学ぶことはできる。
 
今は強い風に吹かれてもなぎ倒されないための根を深く張るための時期であると思っている。