まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

時が過ぎるのではない、人が過ぎるのだ。

「Fall」
 
落ちる
水の音 木の葉
葉は土に 土の色に
やがては帰って行くだろう 鰯雲
旅人はコートのえりをたてて
ぼくらの戸口を通りすぎる

「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」

ぼくらの人生では
日は夜に
ぼくらの魂もまた夕焼けにふるえながら
地平線に落ちていくべきなのに

落ちる 人と鳥と小動物たちは
眠りの世界に
 
 
小物やインテリアが好きな人々にとって雑貨は身近なものではある一方で、特にこだわりがないのであればそれなりのものを手に入れることができる。一体雑貨はどこからきてどこへ行くのか。雑貨店のを営む店主が、雑貨を内側から見た世界の特殊性を著した本だ。そして、この詩はそのうちの一つのエッセイの中に引用されている。
 
雑貨に囲まれて続けて店番をしていると、空間の狭さを感じることがあるという。物理的な面積よりも、ものがそこに長くとどまっていることで新鮮さが失われ、営む者にとっても閉塞感が漂う。それを打破するために作者はがむしゃらに動き続けた。
予定調和に陥らないために動くなかで多くの人が彼の傍を通って行った。気づいたらいつの間にか長い時間がたっていた。
 
***
 
広島から小一時間ほど離れた場所で、屋台に入った。屋台にもいろいろな種類があり、お好み焼きやラーメン、焼き鳥などである。その中でも行きたかったのがおでんの屋台で、理由としては滞在したホテルの朝食で食べたものがおいしかったからだ。
 
多くの屋台が既に営業を開始している中、その屋台は1時間ほど遅れて営業を始める。おでん屋ではあるが、豚足と豚耳がおすすめだという。店主は切り盛りするだけではなく、様子を慎重に観察して客が居心地よく過ごせるよう気を遣う。当たり前のようでいて、これを客ごとに変えていくのはそうそうできるものではない。特に最初に出合った客に対しては。注文するメニューからどれくらいの時間滞在しそうなのか、何が目的で店に来ているのか(メインの食事なのか、つまみ程度なのか)。私も最初に訪れた店では厨房を観察するたちなので、酒は注文しなかった。(屋台なのに酒を頼まないのは確かに目的は限られるだろう)
しかし、注文した豚足が予想以上においしかったので、酒を注文した。店主もそこで私が少し長く滞在するだろうと見越して、話しかけてくる(これらは後で店主から説明を受けた)
 
私の後に二人組が入ってきて(彼らもこの店は初めてだったという)、彼らは最初のうちは二人の中で話が弾んでいたがやがて店主もそれにちょっかいを入れ、それが私のほうに飛び火し(悪い意味ではなく)、常連さんも加わってしばらく話が弾んだ。
この間、何人かの客が来たけれども、店主は理由をつけて断った。たとえ席が空いていたとしても、その場の雰囲気がこわれてしまうのであれば受け入れないという。短期的に見ればお客を断ることは回転数を下げることなので避けるべきなのかもしれないが、そこで出されるもの以上のものを求めてここに来る人たちには受け入れられるのだろう。物を売っているようで別のものを売っている。店主は客から色々な人生相談を受けているらしい。道理で実年齢よりも若く見えた。 
 
はじめてこの店に入った私たち3人は店を出た後に別の場所に移動して食事をして別れた。一晩寝ればあっさり忘れているさ、と一人は言った。確かに彼の名前は忘れてしまった。彼が連呼していた仲間のことは覚えているのだが。
 
朝になると昨日の屋台は跡形もなく消えていた。話した内容はとてつもなく下らなかったが、あの狭い場所で過ごした場所があっさりなくなっているのを見ると少し心細くなる。しかし、何もかも浄化するような神々しい朝の光を見ていると屋台はその対称にあるのだった。聞けばこの屋台はもう半世紀近くも続けているらしい。無数の人たちがあの10人も座れない場所にいたのだろう。時が過ぎるのではない、人が過ぎるのだ。
 

 

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