まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

雑貨展

21_21designsightの雑貨展を見た。
 
どこからどこまでが雑貨で、雑貨でないのかの区切りははっきりしないものの、100円ショップに行けば売られているものであろうものから、今は手に入りにくいものまで持ち寄られて集められていた。
 
それなりのものでよければ100円ショップでもコンビニエンスストアでも手に入る。雑貨の大きさをあえて定義するならば、片手で持てるくらいのもので、手の内に納まるもの、になるだろうか。一つくらい買っても部屋の中を占有することがない。それに、そのうち使うであろうもの、でいざとなったら捨てられる。けれどもそれらは時間がたつにつれて増えていく。
 
「D&Department projectが考えるコンビニエンスストア」では、「家の中に必要以上に複数ある使っていない生活用品」を集めてコンビニエンスストアとして展示し、雑貨的購入とはなにか、を考える。をテーマにしていた。
展示されていたものはほとんどどの家庭でも置いてあるようなものばかりで文房具や使い捨てのコップや容器、電球や紙などの消耗品があった。ランドセルのカバーやタンバリンや漫画が置いてあるのは意外だったが、雑貨的購入という問いに対して考えるのであれば、展示されている内容から推測される雑貨は生活消耗品であって、替えがきくものなのだろう。どれもそれなりの機能で特徴だったものはないけれども、そのうち使うことになるだろう物たち。誰が作ったのか分からない匿名のものだち。対極にあるものは少し値の張るブランドものであるけれどもすべてをそれでそろえるまでもない。なぜならそのうちに消耗してしまうから。
 
いつでも捨てられるはずなのに、捨てられないものがある。平林奈緒美さんが選んだのは飲み物カップの蓋や薬入れやどれくらいのものが入るのかが記載された容器などの必要最低限のものが記載された雑貨。その雑貨を使う人がその機能を利用するためだけに知ればいい情報だけがあればいい。消耗品としての雑貨も手のひらに乗るくらいのものになると機能しかなく、そこに他の情報が入る余地はない。煩わされることがない。それが心地よく感じることもある。
 
物に感じる愛着はいったい何なのか。青山信也さんの「」は既製品の容器や箱の表面から角を削ってモノの本質を問い直す作品を展示する。目の前にあるのは既に色と形しか分からない。けれども丸くて柔らかく、暖かい色をつかっているものは洗剤や柔軟剤だろうし、目につきやすい色をした容器は漂白剤だったり風呂掃除用品だろうということが認識できる。菓子の容器であっても、表面の色がわからなくても、容器の形で、これは○○だな、というのが想像がつく(意外にも)
私たちの目は目に入っているものはすべて認識しているのではなく、自動的に必要なものとそうでないものを取捨選択していることは知っていたものの、それが食べられるものかそうでないか、であったり、何が入っているのかは大方は形を見て予想をつけられている。なので同じ形をしていて別のものが入っていると使用場面を間違えることがある(洗顔料と歯磨き粉の形など)
 
***
 
今和次郎と現代の考現学」では1925年と2014年の家計調査から家計の支出における衣食住の割合が小さくなっていることが示される。選択肢が多い今では衣食住だけでは満足せずに、生活するための支出が必要ということなのか。
考古学に対抗して作られた考現学のなかでは約100年前に欲しいものが列挙されていたが、移動手段や娯楽が限られていたころは身の回りの衣服が多いように感じた。
 
生きていくためにはおそらくそれくらいでもいいのだろう。それでも雑貨を買うことは止められない。
大量消費を賛歌するでもない。が、切り詰めた生活もそれはそれでむなしい。眼の前にはつい手に取ってしまいそうな魅力的なものがあふれている。そうして物を消耗しながらも生きていく。
 
ちなみによい雑貨(消耗品としてのもの)はためらわずにゴミとして捨てられる物だと思っている。例えば付箋でいうと無印とpostitを比べると、後者のほうが一枚当たりの紙の厚みが薄いので、丈夫でないことがわかる。(捨てるのにためらわない)それでも付箋のノリは強いので一時的に貼っておくことができる。一方の前者は紙の厚みが丈夫だが、ノリの強度は弱いのでノリの強度がもう少し強いものであれば複数回つかってしまいそうになる。そこで「もったいない」という後ろめたい気持ちが湧いてくるところとそうでないところに同じ雑貨でも良し悪しが分かれる。