まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

あいちトリエンナーレにて

8月と10月の2回あいちトリエンナーレに行った。始めに訪れたのはこのトリエンナーレを最初から最後までにぎわした不自由展が中止になった後(8月10,11日)、それから抽選という限定的ではあるものの、再開した後(10月13、14日)だった。
 
これまで芸術祭という形で各地方で定期的に開催されている場所に行ったのは、越後妻有、茨城県北(残念ながら二度目は開催されないようだが)、そしてこのあいちである。これまで訪れた2つの芸術祭では、自然の中にアート作品を配置するものが多かったが今回は都市型の祭典だった。前2回の芸術祭に訪れた感想を読むと、自然こそが一番の芸術なのだ、と書いていた。アーティストがどの場所に展示するか、を考えたときに、その作品はsite specific(その場所だからそこ成立する)なものになるはずだが、周囲の自然(展示を開始する前からずっとそこにあるもの)が圧倒的に存在感があるため、作家はそこでなんとか別の文脈を残せないか格闘する。その場と格闘したけれども、記憶に残らないものであったり、そこで展示する必要性が感じられないものもあった。
それでもきちんと展示された場所に呼応する展示には、はじめてその作家を知って調べてみても、強度のある作品を作っている。
 
今回の芸術祭は2010年から3年ごとに行われており、これまで3回行われているが、参加したのは初めてだった。正直に言うと、この芸術祭に行こうと思ったのは、開始直後から中止に追い込まれた状況になりそうだということをツイッターで知った後に、展示内容がこれまで参加してきた自然型のものとは全く別の、挑戦的なものだったことを知ったからだ。8月に参加を決めたときは、まだ参加アーティストのうち中止を表明していたのは不自由展と数名に限っていたのでまだ全体の展示がどのようなものであるかを知る由があった。これが9月に入ってからでは、全く違った景色になっていただろう。
 
都市型の芸術祭でよいところは、交通手段が限られていない、場所によっては徒歩で回れるのが大きい。地方開催であれば、車は必須であり、これまで参加したものでは、臨時で運行しているバスに乗ったり、現地ツアーに参加するなどして雰囲気はつかむことはできる。それでも徒歩で移動するのと車で移動するのでは展示場所に対する印象が残るのが、点として残るのか、それとも移動中の風景も含めた線として残るのかの情報量に差が大きくなってしまう。それでもどの芸術祭でも、いわゆる美術館のようなアートが当たり前に置かれている場所だけではなく、通常それがないところにでも一定の期間置かれることにより、アートの居場所は白い箱の中だけではないことを教えてくれる。
 

一度目に訪れたあいちは、物々しい雰囲気であることを多少は覚悟はしていたものの、幸いなことに私が見た限りではそのような出来事に出会わなかった。どちらも会場に混雑は見られず、ゆったりとみることが出来た。
 
会場は大きく分けて3つあり、円頓寺商店街エリア、美術館エリア、豊田市エリア(駅及び美術館)だった。豊田市のみが中心部から小一時間ほど離れた場所にあるものの、それ以外の会場は地下鉄を乗り継いで行ける距離にあった。とは言え、この芸術祭は動画の割合も多かったので全てを一日で体験するのは難しく、2,3日は必要だったとは思う。
 
今回の芸術祭のテーマは「情の時代」だった。 
 
 
テーマに沿うように、展示されるものの多くは、これまで見た芸術祭と比較すると、世界が抱える課題(難民、戦争など)から個人の問題まで多岐にわたりながらもどこかで見聞きしたことのあるニュースを前提にしているものもあり、作者そのものを知らなくても、作品に向きあうことができるものが多かった。現代美術というと、どうしても見る前に予備知識や解説が必要なものもあり、それがとっつきにくさを感じてしまうこともあるが、今回の芸術祭についてはそれは少なかったように思う。
 
印象に残った展示は2つあった。
 

 

・弓指寛治「輝けるこども」

車の事故で失った子供たち、彼らが生きた時間、世界をどのように見ていたのか。彼らの遺した詩や景色を鮮やかに紡ぎだす。
 

 

こういうテーマで作品を作るとき、匙加減によってはいくらでも同情を誘う、悲劇的なつくりにもできたはずだった。けれども、作者は子供たちがどのように時を過ごしたか、その輝きを遺しながら、加害者が乗っていた車(事故を起こすたびに何度も買い替えていたという)にも焦点を当てる。愛知はいうまでもなくトヨタが代表的な企業ではあるものの、車の事故が全国でトップクラスである負の側面も持つ。そして車を運転している限り、事故はだれにでも起こしうる。作者はあえてこの展示を豊田市では行わずに、円頓寺で行った。それは作者の意図でもわかるように、単なるトヨタや車批判ではなく、作品を見て車を運転する人自身に考えるきっかけを提示したかったのだろう。
 
 
・ホーツーニェン「旅館アポリア
 
豊田市駅の近くに位置する喜楽亭を使ったインスタレーション。喜楽亭という食事を提供するお店が戦時中には草薙隊が出奔する前に祝賀が開かれた場所であり、戦後は残された遺族が語り合う場所として用いられたという場所が持つ特別性を踏まえながら、作者が以前から関心を持っていた京都学派、小津安二郎そして横山隆二を織り交ぜながら物語を紡ぎだす。詳細な内容としては既にいくつかのところで上がっている 。
 
 
会期終了直前に行われた批評家の浅田彰氏と作者の対談はとても有益な時間だった。作者からは見えない部分でもこだわり、例えば、ストーリーのみならず鑑賞するための設計として小津が撮影した環境(畳の目線で撮影した)で合わせたり、日本家屋の中で装置を目立たせなくする工夫等を聞く機会があった。また、作者はこのインスタレーションを通じて何らかテーマやポイントを残したくない、と言っていた。とはいえ、戦争に対する小津と横山のスタンスの違いははっきりしている。もし戦争がもう一度起きたとしても、政府に協力して作品を作るとして横山と、小さな反抗を小道具に仕込ませる小津。ここで、作者は横山に対して糾弾はせず、事実を淡々に伝えるにとどめる。とは言え、これを見る私たちが、次このような事態に巻き込まれそうになったときに、彼らを排除すべき悪なのか、は疑問である。個人的にはアーレントアイヒマンを「凡庸な悪」と呼んだように、ただ彼らは上からの命令に粛々と答えただけの存在かもしれない。対談の最後に浅田氏から作者に、リサーチの結果をインスタレーションとは別の形で残してほしい、という要望が伝えられたが、これについての回答は得られなかった。会期が終われば個々も元の喜楽亭に戻るが、個人的にも何らかの形でこの展示を作るにあたってリサーチして得られた結果を何らかの媒体で残してほしいと切に願う。
 
二回目には会期終了間際、最終日前日と当日に訪れた。
 
混んでいる展示もあったけれどもそれでもゆったりとみることが出来た。
既に再開された後ではあったものの、一度展示を中止した時のステートメントが生々しい。一度閉鎖された展示には「展示 再開」のサインがある。
 

 

テーマがテーマだけに外部の圧力に敏感に応答していくスタイルだった。これだけ流動的に形を変えるのもある程度の長期の展示だからこそできたのではなかったか。
 
一度目に回るのを忘れてしまった小田原のどかの作品を見る。豊田市駅のスペースに設けられたネオンの矢を見ただけでは何を意味しているのかは分からない。それでも存在感のある矢は隣の部屋に意味するものを紹介する。長崎に原爆が落ちた爆心地に刺さった矢をモチーフにしていたのだった。誰が何のために作ったのかはわからない。詳細な説明が書かれたパンフレットを読むと同じ被爆地の広島との対比が記されており、地域による考え方の違いに触れる。彫刻家でもある作者による分析は作品を見るだけではないその背景と文脈が作品を理解する手助けとなる。(新豊田駅の近くに配置された作品もしかり)
 
夕方には会場を離れてしまったので最後まで会場にはいられなかったが、最終的には知事をはじめとする暴力に行政が屈しない形を見せたことには意義があった。
会期は終了したが、この芸術祭が提起した問題、そもそもアートとは何か、芸術祭の立ち位置、行政との関係、批判への対応、など考えることはまだ山積みである。
 
***
 
今回の芸術祭ではアートとは一体何なのかを改めて考えるきっかけになった。
個人的には、アートを体験することで、自分の中にあった考えや見解を拡張させる媒体の一つだと考えている。ただ素敵な気分や気持ちがよいものにさせてくれるものだけがアートではない。文学に浸るのも、作者が綴った物語の中に視覚から入り込み頭の中でそれを目撃し、体験している想像力の必要なアートの一つである。読み進めながら作者と頭の中で対話をする。
 
〇状況
不自由展が中止に追いやられた状況として、コンテクストから切り離され、キーワードでしか見ることが出来ないことにある。キーワードが単純であり、かつ悲惨なものであるほど拡散されやすい、という状況もあった。今回の不自由展の展示の一部には天皇の写真を踏みつけるという動画があったという。この状況だけを書きだすと、侮辱している行為と受け止めてしまうかもしれない。しかし、全体の文脈はそこにはない。
 
ところで、私たちはいくら理性的な動物とはいえ、感情的に判断してしまう動物のようだ。差別だと思っていないとしても、差別は埋め込まれているし、刷り込まれてもいる。「社会はなぜ左と右に分かれるのか」の作者であるハイトによると、道徳的な判断には「情動」が大きな役割を果たしているという。
  
社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

  

「道徳的な判断において、人間はまず直観に従って判断し、そのあとに論理的に思考を働かせ、自分の判断を正当化させる。不快、という感情(あくまで主観的であり、難癖やいちゃもんと取られてしまうもの)こそが、道徳的な判断の根拠であり、直観による道徳的判断は、人類が共同体を形成し維持する中で進化的に獲得された。

また、内集団バイアス(自分が所属する集団のほうが所属しない集団よりも優れているというバイアス)や公正世界信念(世界が不条理ではなく、構成であると考える認知バイアス)といった認知バイアスもこれらの主張に拍車をかける。
 
しかしこういった状況にただ流されるだけでは人間としてではなく、動物としてのヒトとして情報にただ反応する機械と同等になってしまう。それに抗うために以下が助けになるかもしれない。
 
〇自分の気持ちから分析へ
渡辺雅子は「納得の科学」のなかで学生時代の文章作成の授業を比較しながら日本とアメリカの思考表現のスタイルの違いについて書いている。著者はどちらの教え方が良いかは指摘はしていない。アメリカは様式に従って書くことで形式は制限がかかるが、その分、何を言うかに重きが置かれるため、技術の成熟度が高まる。その結果として文章の多様性が生まれるという。しかし、日本の教育では人の気持ちになったことばかりを考えるために、技術は磨かれない傾向にある。
 
納得の構造―日米初等教育に見る思考表現のスタイル

納得の構造―日米初等教育に見る思考表現のスタイル

 

 

日本での作文では感情や気持ちが伝わるように詳しく状況を描くことが重んじられる。一方でアメリカの文のつくり方は、様式によって異なり、それらは既に形式化されている。そのために、その中で出される違いは、主張のめあたらしさや根拠となる事実の選び方、あるいは両者の組み合わせによって勝負せざるをえない。
  

 

したがって、事前準備という大げさの言葉で書いてしまうが、まず作品を目の前にして不快な感情が沸き上がったら、まずなぜこれがアートなのか?とまず疑問を持つことが必要なのではないか。なぜこれを評価する人がいるのか。どうして展示されているのか、その意図は何なのか。そういう疑問を持ちながらキャプションを読む。
そして自分の中に沸き上がった感情を修正する、しかし、どうしても生理的、心理的に耐えられない展示もあるかもしれない。その場合は速やかにその場から離れる。
 
見る権利は尊重されるべきである一方で、見たくないものには選択の余地を提供する。それは動線の分離によって解消でき、例えば岡田美術館の春画のスペースは既に分離されている。今回の不自由展についても、そこを通らなければならない動線上にあり、見たくなくても目に入ってしまう、という状態ではなかった。(見る側の選択権にゆだねられているにもかかわらず、ただ存在することだけで非難が起きたことには毅然として反論するほかない。)
 
〇審問の語法から自己批判
 
内田樹は「ためらいの倫理学」の中で、自分の正当性を論証できる知性は持っているが、自分の意見が間違っている知性はない、と指摘する。 
 それでも自分の感情が不快に思えるものであっても、なぜそれが存在するのか、どのような評価を受けているのか、などと問いかけることはできる。
アーティストやキュレーターが芸術祭に対する意見を受け付けるコールセンターを会期後半に設けたことはこれに該当するかもしれない。
ある限定された時間だけ公開された電話対応の音声は全く対話を成していない脅迫であった。この状態では怒っているという状態がわかるものの、あとはヒトとしてしか相手を脅すことしかできないので対話は成り立たない。それよりも怒りの解像度を上げる必要があるだろう。何が自分の怒りに触れたのか。どうしてこの作品が美術館に展示される価値があるのか?、ならまだ相手も説明しがいがあるだろう。
 
〇補助について
芸術祭は税金を投入せずに、自助努力で何とかするべきだという意見については、である/でない、という事実命題から「べきである/ない」という価値命題は導き出せない、とするヒュームの説に抵触する。再配分という税金の特徴が失われれば税金はもはや存在する必要はなく、富の再分配は行われない、結果として生得的な差が解消されずに固定される。

 

道徳について: 人間本性論 3 (近代社会思想コレクション)

道徳について: 人間本性論 3 (近代社会思想コレクション)

 

 

 
残念ながら今回の芸術祭を発端に、主催者が明確な基準を持たないまま、補助金を支給しない状況が映画の分野でも報告されてしまった。
懸念材料への解消は予期せぬ負担を恐れる小規模な自治体から発生するが、今回の芸術祭で流動的に対応した警備などの対応は広く共有されていってほしいと願うばかりだ。
おそらく近いうちに知事の承認を得た「あいち宣言」が発表されるだろう。
 
今回のトリエンナーレで芸術監督を務めた津田は最初にビスマルクの「政治は可能性の芸術」という箴言を取り上げている。皮肉にも今回の芸術祭は政治の術にからめとられてしまった。今後の芸術祭やそれに準ずるイベントはこの芸術祭で起こったことを避けては通れない。
 

今回取り上げた引用の多くはこの本に依拠している。 気になる方はぜひ手に取ってほしい。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。