まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

原美術館「快楽の館」と東京都写真美術館「ロスト・ヒューマン」

原美術館で開催中の快楽の館と東京都写真美術館で開催中のロスト・ヒューマン展を見てきた。
どちらも写真家による展示で、片方はヌード、もう片方は33人の専門家が見た文明の廃墟、と両極端の展示でありながらも近いものを感じたので各展示で感じたことを書いてみる。
 
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快楽の館は原美術館の様々な場所で篠山紀信氏が各部屋からインスピレーションを得て撮った写真を展示されている。
説明書きはないが、それぞれの写真が取られた場所のすぐ近くにあるため、この場所でとったのか、というのがわかる。
既にそこにいたモデルの存在はないものの、写真を通じてその場所をどういう場所としてシャッターを押したのかを想像することは出来る。
 
例えば自分がよく知っている場所であっても、テレビに映された状態で見るのとではまた印象が違うように、その場その場で写真に収められた一時の虚構と今の空っぽの空間との答え合わせをしていくのが面白い。この展覧会は巡回はないのだが、写真が撮られた空間を知らずにただ写真だけ展示されたのでは、ただの裸を見せているだけに過ぎなくなってしまう。年齢制限がない(保護者同伴は必要だが)と主催者が判断したのも、ただ写真だけを目的に見てほしくないからだろうと思っている。
 
大人数で映った作品もいくつかあり、瞬間ギョッとしてしまうのだが、普段見慣れないものに出くわして間隔が麻痺してくると写真に写っているのはヒトのはずなのにヒトでないように見えてくることがある。
普段見慣れている自分の肌と比べてこんなに色が鮮やかなものなのか(人形のように見えてくる)であったり、逆に夜に屋外で撮った写真では体全体が照明を反射して身体の内部から発光しているように見える。自分が過去に見た絵でいうとピカソ藤田嗣治の作品を思い出すのだった。
 
午前中に訪れたのだけれども、夕方や夜になるとまた違った表情を見せてくれるだろうから次は時間を変えて行く予定だ。
 
 
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杉本博司氏のロスト・ヒューマンは一時期繁栄した人類が様々な困難により衰退し、廃墟した文明を紹介している。
3年ぶりにリニューアルしたにもかかわらず、廃墟をテーマにした展示でスタートすることに主催者の意気込みを感じる。
空間は錆びついたトタンで区切られて、33人の専門家による嘆きのメッセージは「今日世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」で始まる。展示されている作品は杉本氏が収集した歴史的遺物と撮影した作品がちりばめられている。
人間は不思議なもので、いくつかの断片的な情報を提示すると、そこからストーリーを作るように解釈をすることが出来る生き物だ。だから、専門家が書き残した文章と展示物を眺めていると本当に起こったかのような気分にさせられる。特に展示物が過去に起こった出来事の作品(例えばWW2のものであったり)である分、より一層現実味が増す。
けれども各専門家の嘆きの文を読んでみると(展示物のものは読みにくいものもあるが、入場時に配布されるパンフレットにタイプされているものを読めばカバーできる)、色々とツッコミを入れたくなる部分があることに気づく。そこまで悲観的に考えなくてもいいだろう、と。
実際この展示はなにも見た人を絶望させるためのものではなく、「文明が終焉しないように考察をするためのインスタレーション」だと書いてある。過去は変えられない、けれども未来は変えられる。それに向き合うための最悪な状況から脱するためには陳腐な言葉ではあるが自ら考えることの大切さが必要なのだろう。
  
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快楽の館では原美術館という建物に一時的なヌードモデルを配することで快楽の館という虚構を演出した。
いっぽうのロストヒューマンでは歴史的遺物に文明の終焉を配置して人類の終焉という虚構を演出した。
方や空間が人の姿に規定され、もう片方では物が空間を規定する。限られた展示期間という虚構であっても、いざその中に身を埋めてみると想像できるものがある。
ということでどちらの展示もおすすめです。