まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

Pretend

2020年の4月に書いたブログから半年以上経過した。世界はまだこの感染症から脱しきれてはいない。とはいえ、予想をはずれてよいことがあった。それは有効性のあるワクチンが開発され、承認を受け(これも驚き)、スケールアップされ(ここが一番の驚き。これだけで数か月単位の時間がかかることが予想されていたため)接種が始まっているということだ。創薬の開発にかかる時間と検証(いくつものPhase)を経てようやく完成するという背景を知っている身としてはいまだに信じられないのが正直なところである。
 
もちろん世界の優秀な人たちは慎重に検証し、決断をした。残念ながらワクチンという言葉に拒否反応があり、すでにある有効なもの受け入れられにくい土壌がある我が国ではベンチャーによる参入はあったものの開発は遅れている。幸いなことにいくつかの国で接種が始まった後に配布されようとしているので他の国である程度の副反応が明らかになってから導入されるので「不安」という何に恐れるのか対象もわからないで動けなくなりがちな我が国においてはこの優先順位は悪くないのかもしれない。
 
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今年の9月に新型コロナ民間臨時調査会・検査調査報告書(コロナ民調)が出版された。
限られた時間の中でこの感染症にまつわる多くの決断がなされ、実行に移されてきた。この無数の決断の中ですでにもう最初の出来事は忘れかけているし、圧倒いう間に忘れさられるだろう。まだこの感染症の危機は去っていないものの、今後の危機管理対応へにつながる資料として有志ができる限り決断を行った人物に直接ヒヤリングを行い、どのような状況を経て意思決定が行われたのかを論じている貴重な資料である。粗削りな部分は否めない。それでもこの報告書を読んで、起こってきた出来事をなぞっていくとあまりにも多くの出来事が一度に起こったために自分の中で順番があいまいになっていることに気付かされることがしばしばあった。
 
春には緊急事態宣言を出し、気温が高くなって陽性者の数も少なくなったのでこのまま収束に向かうという希望は無残にも打ち砕かれた。
ようやくいわゆる先進国が気づき始めたことは、感染を封じ込めない限り経済は回復はしない(新しい生活様式、という提案はされたものの、基本的にマスクをするくらいしか対応できていない)ので、まずは感染者を抑え込むことが大事なのである。対策をしているというレインボーのステッカーを店の前に出してはいても感染が広まってしまうことがわかるとステッカーは剥奪される。このステッカーは店側の感染対策の意思表示であるが、その店を訪れる客は個人のグラデーションのある危機意識に基づく感染対策になっている。
 
これまでの感染対策を振り返ると、飲食店に一方的に努力を強いているものが多いように感じる。営業時間の短縮や休業要請、感染対策をしているという意思表示などである。この策はすでに第一波だけではなく、第二波と同じような対策をとっていて効力はあまりないように感じる。
一方で個人単位での感染対策はマスク(wear mask)、消毒(disinfection)、距離をとる(social distancing)、三蜜(密接、密集、密閉)それ以外にも多くの標語が生まれた。とはいえ、マスクをつけることは習慣になったものの、飛沫感染が発生する状況が一度でも起これば感染の可能性がある気の休まらない状況が続いている。こういう状況が長引くと疲弊し、いい加減なものになってしまう。特に人によって感染しても症状が出なかったり、かといって急激に悪化する人もいるので、長期的な感染対策に応じたメリットが得られにくい。それに加えて一度感染したら再度感染しないものでもないのでどこまで対策し続けなくてはならないのか終わりが見えない。
 
とはいえ、大勢の人に行動変容を促すのは容易なことではない。緊急事態宣言の人の移動を8割削減と提言した西浦氏の言葉は強烈であったし、数字として根拠があるものだった。けれども、恐怖だけで人の動きを変えてもらうのは僅かな時間でしかない。それに、何度も同じことを言っていても人は段々慣れてしまうし、聞いているふりをしてしまう。分科会の会長である尾身氏は最近の会見では”急所を押えた対策”、という言い方に変えている。それでも感染者の数の推移に減少が見られないとより強い措置を取らなくてはならないだろう。
 
ちなみにコロナ民調では現総理の菅氏は官房長官の時期に最後まで経済の先行きを懸念して緊急事態宣言の発出に懸念を表明していたという。そのため彼が総理になった今はよほどのことがない限り発出することはないだろう。そう考えると、前総理の安倍氏のほうがまだ国民の感情に対してセンシティブであったように思える。(それでも安倍氏も勢い余って大鉈を振るった結果、本当に必要な時に強力な措置がとれないこともあった。例;学校の休校を行った後の大きな批判の後での卒業旅行への制限措置)
 
〇経済との両立の困難さ
 
感染症と経済の両立は果たしてできるのか。 Go Toキャンペーンに振り回される旅行業界や飲食店などは突然のキャンセルに伴う返金手続きに時間を費やした。夏の間はたまたまウイルスの動きが悪かったという理由もあり、気持ちのゆるみもあったのかもしれない。それでも陽性者を0にはできなかったためにまた広がりを見せている。感染症を克服するまでのモデルでは拡大と縮小をはさみながら次第に減少していく様子が描かれている。残念ながら現実には何が感染を広げているのか、もしくは抑えられるのかを明確にせずにGoをかけてしまった。
このまま気温が下がったとしても感染は増えないだろう、という見立てが甘かったのかもしれない。すでに分かってように、現在の状況はおおむね2週間後に結果が出るので一時停止にしても先手先手で対応しなければならないのにそれができずに、時期が熟してから決断するという後手になりがちである。その分効果が出るのも後にずれ込む。
 
〇一枚岩ではない中枢
 
省庁も決して感染拡大が第一優先だとせずに一枚岩ではなく感染拡大よりも経済回復を優先させたいと考えているのは言うまでもない。
例えば電車に乗っていると毎度のように「国土交通省からの感染防止対策のお願いです・・・」というアナウンスがなされる。これはなぜ日本政府からのお願いにならないのか。政府一丸となって対策をしていないのではないか、と思われるような印象を与えはしないか。もちろん交通については管轄は国交省なのだろうが…ある路線では国交省、厚生省と併用してアナウンスがあったが、これも聞く人にとってはそれほど大差ない。些細なことではあるが東京問題同様、政府が一丸となって対応しなければならないはずなのだが、そうはなっていないように見える。
 
秋ごろ全国の感染者は小康状態だったが東京都がいつまでも感染者が減らないことを揶揄してか、「東京問題」という言葉が生まれた。この言葉は東京都のみに感染者が減らないことの責任を押し付けているに過ぎない。Gotoも一時期東京都だけが外されてスタートしたものの、東京への一極集中の結果が、周辺の県への感染を招いているし、現段階では明確に感染がしみだしているという話もあった。埼玉、千葉、神奈川はセットで一時中止や再開を行わなければならないのではないか。経済対策を優先するあまりに回復を優先させた結果が今にある。
 
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これまでの危機に対して、国がどのような対応をしてきたかを振り返ると、何かが起きてから対応するという後手後手に甘んじており、コロナ民調でも泥縄であっても結果オーライとなんとも言い難い結論になっている。たまたまうまくいったことの検証をしないのは平成の経済でも述べられていたことであった。(確かに何度となく語られた瀬戸際、という言葉もあまりに陳腐化しているのでいつまでも同じ言葉であれば、身の危険に感じることも少なくなってしまう)結果的に感染が落ち着いたのはウイルスの動きが鈍くなった時期に重なるので、初めての冬と二度目の春をどのように迎えるのかを、冷ややかな目で見守っている。皮肉をこめて言うとこれも自助の一環であるのではないか、と。表題のPretendはふりをする、という意味だが改めて日本語が本来持つニュアンスにもどかしさを感じながら年の瀬を迎えている。
 

新型コロナ対応・民間臨時調査会 調査・検証報告書

平成の経済 (日本経済新聞出版)