まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

内藤礼 うつしあう創造 @金沢21世紀美術館

金沢21世紀美術館内藤礼展を見に行った。
 
レビューを書いておいてなんですが、あらかじめほとんど情報は入れなかったのが正解だった気がするので、これから見に行く予定の人は事前に情報を入れないで見に行くことをお勧めします。
 

内藤礼 うつしあう創造」キュレーターインタビュー

 
チケットは現在COVID19の影響で事前予約制となっているのであらかじめ予約することをお勧めします。私が訪れた際には当日券には余裕はありましたが、金額も若干高くなります。
 
以下内容に触れますのでこれから行く予定の方は注意してください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
内藤礼展を訪れたのは暑い日だった。長かった梅雨も明け、まだ午前中にもかかわらず、外にいるとじわじわと体力を奪われる。
美術館の入り口では検温と消毒を促される。検温はモニターでリアルタイムに変わっていくものであるが、帽子をかぶっていた私たちはこの時点で規定の体温を超えていた。
監視の方によるとすでに何度も同じ状況を見ているのか、帽子を脱いでくださいね。と言われるがままに脱いでみると、あっという間に2,3度下がった。
 
展覧会の会場は大きな展示が二か所開催されており、内藤展はスイミングプール側であった。反対側の「芸術によるスポーツの解体と再構築」展では開場前から多くの人が並んでおり、目玉の展示があるのか、当日はカメラが入っているようで人気のほどがうかがえた。一方の内藤展はそれほど混雑しておらず、静かに開場していった。
 
入口では撮影は認められていない旨が伝えられる。多くの展示が鑑賞者が宣伝してくれることを目的に撮影は認められるようになってきた。このような展示はどちらかというとこれからはマイノリティになるのかもしれない。けれども最初の部屋に入って間もなく合点がいく。通常の美術館ではここから先は入っていけない、というような指示がまったくと言って見当たらないのだ。もちろん監視員はいるのだが。最初に入った部屋ではどこに何があるのかわからずうろうろする。会場の展示リストの番号と照らし合わせてその場所に近いところをうろうろしてようやく見つける。もちろん、そこにあることを知っている監視員の方々は制作物が触れないように声掛けをしてくれる。
 
展示室に訪れた順に感想を書いていく。本来ならば順番に訪れていくのが筋ではあろうが、COVIDの影響もあり、人数制限をしていたので順番ではなく、待たずに入れる場所から見ていくことにした。
 
<展示室8>
最初に見たのは天井から釣り下がっている細い糸だ。会場には照明はついていないので天井から降り注ぐ日の光だけが頼りだ。そうだったとしても、普段何気なく訪れている美術館の理想の照度にしてみれば全く足りない。とはいえヒトの目は順応するので、少しづつ環境に目が慣れていくと、そして自身の感覚を少しづつ研ぎ澄ませていくと見えてくる。細い糸なので、上のほうに行くと見えなくなる。けれどもそうであるだろうことは自然と補完する。それでいい、と。絵画などの展示があるとつい隅々まで見てしまうのだが、この展示はそれとは対極にある。
 
内藤礼の展示は直島で見たきりだったが、少しづつそこでどのように見えないものが見えていったのかを思い出しながら足を進める。
 
同じ部屋には床に水の球が密集している。それを静かに見守っていると時々音もなく球ははじける。頃合いを見て水の球は追加されているのだろうか、時間をおいて見に行くと球がくっついて大きな水滴になっている。
 
<展示室7>
隣の部屋は中には入れないので、最初の部屋か、通路から見守るしかない。それでもそこに展示はあり、数点は確認できる。視線の奥に天井からぶら下がった電球がある。これは太陽という作品で、おおむねどの部屋にも備え付けられていることがわかる。同じく太陽の子という作品は各展示室の入り口に二つの照明がぶら下がっている。
 
<展示室14>
入場前に鑑賞できる範囲を教えてもらい入室する。大小さまざまの水球が浮いている。水の中に入ったような感覚もする。中にあるベンチに座り、目を凝らしていると、反対側はプールのある庭とチケット売り場につながっており、その中空を鈴が緩やかな弧を描いて設置されている。まるで何かの通り道のようである(あるインタビューでは外と中が通じる場所と書かれていた。確かに展示会場はチケット売り場という日常から切り離されているところがほとんどだ。非日常から日常が見えてしまうと興ざめしてしまう。けれども展示会場の偶然もあり、チケット売り場に通じている空間があるの「うつしあう」という題名にはぴったり合うものになった。ちなみにチケット売り場は見えるとはいっても絶妙に床からのせり上がりでおおわれているので、ベンチに座っている限りではふんわりとしか感じない)。もし、親切な作り手であれば扇風機でも使って鈴を鳴らしたのかもしれない。けれどあえてそれをせず、ただ見る人に意図を気付かせる方法をとっているので静寂に満ちた空間ではありながらも鑑賞者の頭の中ではハッとする瞬間があったのではないか。
 
<光庭2>
庭の上部に細いひもが南北、東西の二箇所に分かれて掛けられている。二つの紐はひたすら風になすがままになっているが、見ているとまるで波を見ているようにおおらかな気分になってくる。二つのひもは同じ長さではないのだろう、風によって絡まることもなく、ねじれの状態でふわふわと漂う。光庭をただぼーっと眺めるだけの椅子も配置されている。
 
<展示12>
奥に行くとドロップをきれいに磨いたようなガラスが備え付けてある。そこから出口側を見ると万華鏡のような姿が見える。ただ風景で試すよりも二人で試すのがいい。
ここまで見てきた展示を見て思ったことは展示はさりげなく、そして鑑賞者に感覚を研ぎ澄ますことを促すものなので各人が独りで楽しむものばかりなのかと思いきやそうでもないのだった。<展示室14>が外に向けられていたように、独りであっても、孤立しているものではない。
壁にかけられている精霊と名づけられた作品は細い色のついた糸でできているが、ある程度近づかないとみることができないし、<太陽>がともってしまうと探すのが難しいほどの繊細さを持っている。
 
<展示室11>
多角形の台に多数の人形がいる。台の中心には太陽がある。しかし、その周りの人形は太陽を背にして鑑賞者のほうを向いている。よく見ると、別の方向を向いている人形もある。無数の人形の中で誰に感情移入するのか。そこには最初の部屋でも見た水の球の集まり<母型>があり、太陽に照らされて初めてその存在に気付く。しかし、太陽を見ている人形はいなかったように記憶している。その周囲にはcolor begenningという白地にところどころ色が塗られた小さいキャンバスが置かれている。ベンチも置かれている(座ることができる) この展示室は長細い展示で、最も広いものであったが、台を取り囲むように椅子が並べられていると、たとえそこに人が座っていなくても、何かが見張っているような感覚がある。そして、台の多くの人が外を向いているのが、見えない何かと向き合っているような錯覚にとらわれる。
 
<展示室9、10>
隣どおしの部屋は鏡像の関係にある。電熱線に熱せられた空気の上で踊る霊のような柔らかい動きをする糸。熱せられた温かい空気が漂うように動いているだけ、といえばそれだけなのだが、その一つとして同じ動きをしないものに目を奪われずにはいられない。温まった空気は奥の壁につるされた展示物に影響を与えて、時たま動き出す。風船は鏡との鏡像の中で生き、影がぼんやりと映る。この部屋が一番暗いこともあり、どことなく死を感じさせるもののようだった。 すべての展示を見終わり、この太陽という作品が17時になって点灯されるという話を監視員の方に聞いて、またここに来なければならないな、という思いを胸に展示室を後にした。
 
<光庭3>
水の入った瓶が散らばっている。向かい側にはうっそうと草が生えた作品がありその中の通路は温室さながらであった。雨の日に見るとこの庭は楽しいのかもしれない。
 
ほとんどの部屋に<世界に秘密を送り返す>という小さい鏡でできた作品が向かい合わせに配置されている。あまりに小さいので一つの鏡から向かいの鏡の様子を見ることはできないが、向かい合わせて配置することで色々な想像(結界など)ができる。
 
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<太陽>がついた後
 
太陽という作品を見るために夕方になって戻ってきた。こういう時期もあり、美術館は午前中に比べて混雑している、という様子は見られなかった。どこで太陽がともる瞬間を迎えたいのかを考えてみたが、やはり遠巻きからでしか見られない<展示室7>だった。太陽をみつめる2人の人形さながらに私たちはその瞬間を待った。先に太陽がともり、天井の照明も一部ついた。午前中とは全く違う風景だった。見えなかった水の球の集まりがこれほど近くにあったとは。そして、この部屋には遠くに糸の作品があったようだが(それはインタビューを読んだからわかったことではあるが)、特に残念な気持ちはわかなかった。そこに作者が意図して配置したということに意味があるが、それを見られなくてもいい。存在があれば。という気持ちはなかなかわかないものではないだろうか。
 
満たされた気分で美術館を出る。ミュージアムショップを出た後で展覧会のカタログが置いてあったので眺めてみるが何も印刷されていない。もしやこれも作家の意図か、と思いきや、これはまだ印刷前のものだったので思わず笑みがこぼれる。
 
美術館によってはオンラインで見ることのできる展示もあり、それはそれで生き残るための選択肢としてアリとは思うのだが、この時期に生身で美術館を訪れる機会は何物にも代えがたいのだった。会期がそこまで長くできないのは自然の光の見え方も作品の一部として考えているからだろう。機会がある方はぜひ訪れてほしい。
 
以下は鑑賞後に読むことをお勧めします。
 
 タカイシイギャラリー
 

空を見てよかった