まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

めくるめく写真展

普段展覧会やギャラリーに行くときには、それほど意識して行きたい展示を選別することはないのだが、今年に入って写真展や関連のイベントに行くことが多いことに気付いた。
 
ざっと上げると
1.快楽の館 (篠山紀信原美術館
 
2.ジェイコブ・リース展 @Ribe Kunstmuseum Denmark
 
3.ヨハン・レンペルト展 @IZU Photo museum
 
 
5.君の住む街 (奥山由之) @表参道ヒルズ
 
6.Your choice knows your light(奥山由之)  @千駄木
 
7.うつくしい日々(蜷川実花) @原美術館
 
 
9.フィガロ2017年4月号 川上未映子の連載
 
10.ソール・ライター展@ Bunkamura
 
快楽の館は原美術館をキャンバスにしたヌードを中心にした展示だったのだが、写真で撮られているものと、もうそこにモデルはいないがらんとした空間がほぼ同じ場所に展示しているので、篠山氏の空間のとらえ方、解釈の仕方に驚く。そこに人がいるだけでこれほどまでに人の熱を感じるものなのか、と。
 
デンマークのジェイコブ・リースはもともと新聞記者だったが、世界恐慌当たりのニューヨークで貧困にあえぐ市民、特にそのころは労働者の権利もなく安い賃金で劣悪な環境で働かされていた子供たちや青年たちを撮った。彼が出版した写真集は当時の生々しさを伝え、時のルーズベルト大統領にまで伝わったが、有名になった後の彼のキャリアは写真から離れてしまった。
 
ジェイコブ・リースから20年ほど経過したのちにソール・ライターは生活者をガラスを隔てて撮っている。クールジャパンのように自分で自分をほめるのは常々かっこよくないと思っているのだが、この展覧会でもなぜか「伝説の写真家」とタイトルが付けられており、よい作品とそうでないものが混在しているのが残念だった。(特に後半)。雑多な情報も時には必要だが、それを一品のものと同レベルに並べてしまうことに不満があったのでキュレーターの力は感じづらいものがあった。
 
原美術館の10日間だけの蜷川実花の写真展は父幸雄との別れがテーマになっている。1階は避けられない死に動揺しながらも父親に同化して過ごしているような美しい写真があふれていた。一方二階に行くと、自身に子供が生まれ、ちょうど父、娘、子の年齢が均等感覚に並び、死にゆく父への同化から少しづつ離れていったように見えた(結果的にそれはよかったのだと思う)父親の仕事場であった演劇という一瞬の虚構を取り込んだような写真は新たなステージへの餞のようにも感じられた。
 
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ソールライターを見る前、5/14 (日)に梅佳代さんと川内倫子さんの対談を聞いたときに印象に残ったやり取りがいくつかあった。
 
梅「10年前に撮れていたものが、今では撮れなくなっている。(家族を撮った写真を見ながら) これ以上近づいたり、超えたりするとヤバいという察知力が動き、そこを超えてしまいたくない。」
川内「写真家であるよりも前に、人間として生きていくときに写真がある
超えてはならないものは特に今は見えなくなっていて、というよりもそれこそ個人の裁量に任されているが、それをあえて超えていくものもある。それは一時期注目される。それをあえてしなくても、生々しさを感じたり、胸がざわつくような写真は二人は撮る。
 
奥山由之展は表参道ヒルズの展示が圧倒的な人気だったものの、千駄木の小さいスペースで見た展示には野田凪のテレビの環境(しばらくの間白黒テレビだけしか見させてもらえなかった)を後追いする形で脳の中のスイッチが切り替わる感じが面白かった。表参道ヒルズの展示では被写体の女優が住んでいるだろう街を仮想して写真を撮っているのだが、モデルと風景がはまっている感じはあまりしなかったように感じたのは写真が少なかったからなのか。(ちなみに一番風景に溶け込んでいるように感じたのは多部未華子だった) 一方の千駄木では近所に住む人に最初は煙たがられながらも二年間密着し、撮影している。 そのためなのか写真にも動きが感じられ、背景にも違和感がない。
 
ヨハン・レンペルトはもともと生物学者だったので、学者の目から自然や動物を見たときに感じる視線は動物が見ている視線に近いものになるだろう。木の実が動物の目の擬態に見えるとは隣り合わせに並べないと気づかない。けれど私たちも少ない情報からでもこのようになっているのだろうという余白を埋める補正をしているので、時間とは別の順番で並べられた写真を見るとあたかもそのように動いてしまう。ただ見せるものに新たな視点/切り口を追加したことは大きかった。
 
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川内倫子梅佳代の対談に戻るけれども、作品の意図について二人はこんな風に話す。写真集を作ると必ず新聞社の人に、この作品で伝えたいことは何かを聞かれてしまう。けれど、「私たちにはそんなものはない」。新聞における写真は報道を伝達する要素として使われるのだから、確実に意図をもって写真を撮るし、選ぶだろう。「こんないいもの撮れました、いいでしょう、と自慢するような感じなんですよね。パッケージにして見せびらかすような」(梅) 当然写真集として出すのだから、価格帯によって、入れられる数が限られるし、どのような順番で見せたらよいのか、構成も求められる。けれどもう一つの物として世に出た後はmessage in a bottleのように拾った人が自由に解釈してよいものになる。
 
写真を撮る行為はすでにスマートフォンや携帯電話を持っていれば誰でもシャッターを切ることができるし、SNSを開けば、整った写真を見つけるのはたやすい。
けれども、上にあげられたもの以外に、何冊か写真集を購入して漠然と思ったのは、整っているものほど、見た後に残るものとは限らない、のだった。色が特徴的なことはあるが、それだけだった。川上未映子の連載ではSNSのphotogenicな写真に胸躍らせて実物を見に行ったのに、そこに気分が上がらなかったので結局買わなかったことが続いた、とあった。
必要以上に情報過多の今だからこそ、むしろ残らないものが圧倒的で刹那的によさげなものが通過してはいくものの、見てしばらくたった後も最初見たあのもやもやとした気持ちというものが残っている。それを言葉で何というのか。それがプロの写真家と呼ばれている人の仕事なのだろう。
 

ナスカイ