まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

The shape of voice

聲(コエ)の形をみた。
 
※内容を含みます。
 
最初予告を見た時にはよくあるパターンの恋愛話だろうと思い、あまり見るつもりはなかった。ただ、映画をたくさん見ている方が褒めていたので見ることにした。
 
予告編は聾唖の女性への恋物語だったけれども、見終わった後は障碍者との恋愛物語、というよりも主人公:石田の友情、青春物語だったと感じている。ヒロインの西宮との関係が全ての始まりではあった。、小学生の時の2人の関係 いじめる側、いじめられる側の関係が西宮硝子の転校という形で終わりを迎えた後、いじめの張本人である石田は教室から浮く存在になる。
中学になっても、昔の友人が石田をいじめで転校させたことがあると彼の人となりを言いふらしたことで、彼の孤立した状態が続く。
 
高校でようやくできた友人:永束との間も、最初はギクシャクして友人の在り方について堅苦しい質問を投げかけるほどだった。
石田がいるクラスの同級生や教師の顔には×印がつけられている。彼はいつの間にか周囲と視線を合わせることをしていなかった。存在は認識しているが、名前までは覚えてはいない。永束ときちんと向き合った時、×印が地面に落ちるが、それは彼自身がこれまで見ようとしなかったものを見られるようになったシーンで象徴的でもある。
 
硝子の妹:結紘は姉を守るために、最初は石田を姉に接触させまいとするが、石田が本心から姉と関係を修復したい思いを受け取ると、石田に協力的になるとともに、石田によい印象を持っていない母親と修復中の硝子とをつなぎとめる役割を果たしている。一方で祖母に見透かされるように、姉のことばかり気にかけて自身の勉学がおろそかになっていたが、、自身が頼れる存在として石田が描かれ、ここも一つの友情として見て取れる。
 
 
西宮への友情を起点として、離れ離れになっていた小学生時代の友人と再会を果たす。過去の友情は修復できたかに見えたが、過去の事実、「西宮硝子をいじめて転校させた張本人は石田将也である」によってバラバラにされる。
西宮というハンディキャップを持った人に対して石田は積極的にいじめていたことは確かだが、彼女の扱い(筆談というコミュニケーションの取りずらさに始まる)に困り、石田のいじめに積極的に加担しないまでも、少し離れたところでその姿を見ていた状態にはいじめを放置していたという理由で消極的に加担していたのでは、というセンシティブな問いかけが石田によってなされる。
悪者の範囲はどこからどこまでなのか。裁かれるべき悪人はいつまでも悪人なのか?には少し大人になった友人が成長し、誰にでも過ちはある、と赦している。
 
石田は西宮をいじめた時に壊した補聴器代を稼いだ後に自ら命を絶とうとした。結局それは失敗に終わる。自分自身が他人にした目に見える形の補償というけじめだったのだろう。西宮もまた、自分が友人だと思っていた人たちが過去の自分のせいで不幸になっていることに胸を痛め、自殺を図る。しかし、石田により住んでのところで救われ、代わりに石田が大けがを負う。
石田の未遂は母親に、西宮の未遂は石田を看病していた小学生の頃の同級生:植野にそれぞれ死による責任放棄の身勝手さを責められる。西宮の場合は自身の身勝手さに無関係の石田を巻き込んでしまった事への非難がなされる。
 
植野の性格は回り道をせず、はっきりとした物言いをする。石田への好意ははっきりしている。一方で西宮の物事を円滑に進めようとするために自分が悪者になって謝罪する行為(それは小学校から続く)への嫌悪感を持っており、西宮にぶつける。
たとえ障碍者だとしても、その性格が障碍者による生き抜くための方法のひとつだとしても彼女は差別はしない物言いをする。
どちらかというと、暗黙の了解で配慮という名の遠慮がされるのが一般的だろうと勝手に考えていたものの、実はその配慮が相手が変わらないことの理由にしていたのかもしれない。
 
退院して文化祭が開催されている学校に来た石田は同級生の視線を見ることが出来なかったが彼の過去を許した彼の友人が彼を導き、彼の心の目が解き放たれ、これまで見ていなかった周囲に何が聞こえているのかを意識する。彼は周りを気にせずに大人げなく泣いてしまう。西宮の聾唖ばかりに目が行ってしまうが、彼自身もまた長く孤立した状態で自身も周囲の声を無意識のうちに聞かないようにしていたという点で、彼もまた聾唖だった。
 
タイトルの聲の形が何故旧字体なのか。聲の語源は「石の楽器を打ち鳴らし、耳に聞こえるその鳴る音」「おと、ひびき」の意味だという。声が聞こえる耳がある。その耳は聞こうとしていただろうか。その目は見ようとしていただろうか。石田があってこその映画だった。