まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

樂と萩

日本橋三越本店で開催中の樂と萩(1/26まで)のギャラリートークを聞きに行った。
樂の15代 樂吉左衛門と萩の15代 坂倉新兵衛が互いの道具と土を取り替えて作り上げられた作品を展示している。
 
始まりは樂氏の制作中で瞬間的に「これは」と思うものを形にできるものを模索していた。写真という形式でも始めていたが、大学の旧友である坂倉氏と食事をしている時にこの話題になり、4年ほど前にこの企画が動き出した。
 
最初は互いに土を送りあって、互いの土の性質に手を慣れさせることから始まった。樂氏は家に轆轤がなかったので購入した。(樂は轆轤を使わない。)
 
同じ焼物ではあるが、互いに作りあげるまでの違いが二人を格闘させる。
 
坂倉氏が取り組む樂は轆轤を使わずに、土と道具さえあればどこでもできる。いわば「自由」な焼物だが、いざ作り始めるとしてもどう始めて良いか、と迷ったという。試行錯誤の末に作り出した作品について感じたことは、最初に形を作ってから削り出すのであるが、(楽の作り方は一度大振りに作ったものを寝かせてから彫刻のように削り出す)最初の形が最後まで残る(ゆえに気を抜けない)ことと、良いものはそのまま残し、いらないものだけを取り除くことでよいものが出来る、とのことだった。(樂氏も最初の形が最後まで残る、という意見に同意していた)
 
一方の萩に取り組んだ樂氏は轆轤を使ったことは大学以来とのことだったが、樂焼の窯の一部の部材で轆轤を使って作り上げる作業が毎年あり(樂は毎年窯を新たにする)、基本的な使い方はマスターしていた。ただ、樂に比べて萩は焼き上げた後の収縮率が異なる(萩は17%、樂は10%)ので、目標とする大きさに作り上げることに苦労したという。ある時仕上がったものの大きさが小さいと思い、大きく作り直そうとしたら、今度は大きくなりすぎた、など。大きさに目が慣れてしまうことが原因だという。(同じ焼物でも素材が違うと自分が持っている感覚がズレてしまうという話は印象的だった)
轆轤を使って土をつかんでいる時とそうでない時があり、「つかんでいる」時によいものが出来たという。また、つかむという感覚は人差し指、中指、薬指の三本の指で感じとるものだった。
 
2人に共通していたことは、窯で焼き上げる時の緊張だった。自分で作ったものであれば、やり直しができるが、他人の作ったものにはそれが出来ない。樂も萩も焼き上げてみないとその時々によって発色に良し悪しが出る。幸い、どちらの仕上がりもよいものが出来上がったという。
 
今回のトークの最後に、樂氏はようやく轆轤を使うのが面白くなってきたので、本当はもう少し続けてみたい。だがここで止めておいたほうがいい、という。何故なら、このまま続けてしまうと萩とは別のものになってしまうということだった。萩は色の種類があまりないので樂のものを組み合わせていろいろ試してみた、とも話していた。あくまで入口のままで終わりたいという樂氏の考えには驚いたものの、常に新しいものを模索している樂氏にとっては一つの通過点なのだろう。また、この提案と材料の提供に快く応じてくれた旧友の坂倉氏に感謝していた。二人の60代後半にしての新たな取り組みに感じ入った小一時間だった。
※会場は満員で二人の表情は見られなかったもののマイクを通じて充実した製作期間だったことがうかがえた。
 
吉左衛門氏の作品は京都の樂美術館でも見ることが出来る。
 

樂と萩