まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

2015年と読んだ本のこと

早いもので今年もあとわずかである。1年は年を重ねるごとに軽くなっていく、と高校の担任が話していたが、今年に限って言えばそんなことはなかった。むしろ色々なことが起こりすぎてついていくことで精いっぱいだった。(あえてついていかないことも多々あるが)。先のblogに書いたように、何か予想もしないことに出くわしたときに何も知らない、という状態はただ目立った情報に振り回されるだけだ。(それは311の時も同じだったが)
 
 
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今年の私にとっての大きなニュースは海外では年明けと12月のフランスのテロ事件、国内では2020オリンピックの白紙撤回(競技場、エンブレム)、東海道新幹線内での自死だった。
 
フランスの事件の後、イスラム教に関する本を何冊か読むが、宗教の対立というよりも、独裁政権から民主主義政権になったことで、マイノリティの反乱を抑えきれなくなった上での出来事のように考えている。偶然にもこの国は周りを海に囲まれているために他の国との区切りが分かりやすいものの、地続きの大陸では、国が出来たり滅んだり、その過程で国境が不合理に作り替えらえている。その過程で生まれた人とその子孫は例えその土地が自分が生まれた国のものでなくなっても、強い思いを持っている。(それは郷愁というなつかしさだけで終わるものでは無い)
 
今年一番読んだ本は結果的にアメリカに関係するものが多くなった。それは「戦争」という言葉を耳にする機会が多くなったからかもしれない。ブッシュ(子)に仕えたゴンドリーザ・ライス氏の回顧録(ライス回顧録 ホワイトハウス 激動の2920日)では大統領補佐官時代の強硬派ラムズフェルドやチェイニー副大統領との確執がはっきりとではないものの感じ取れる。それでは、当のチェイニー氏はどう考えていたか、というと彼は彼なりに信念を持って仕事をしていた。私利私欲のためでもなかった。(策謀家チェイニー 副大統領が創った「ブッシュのアメリカ」 (朝日選書))の中でも書かれているが、チェイニーがブッシュの裏で操り人形のように意のままに動かしている、という憶測については取材したすべての関係者が否定していた。あくまで最終決定者は大統領だった。一方、当時のイギリスのトップとしてブッシュと共に戦争の道を選んだブレア首相の戦争に対する考察を書いた(倫理的な戦争)では、ブッシュとの個人的な友情関係の重視、イギリスのアメリカへの元来の啓蒙的な姿勢と単独で戦争に突入する孤立主義を回避するため、EUにおけるイギリスのリーダーシップの姿勢、限られた側近の意見に重きを置いて、周囲の省庁はおざなりにされていたなどの理由を挙げている。
 
第二次大戦中に従軍記者として銃前で兵士の取材し、アメリカ本国に戦争の状況を伝え、終戦間際に狙撃され亡くなったアーニー・パイルの記事をまとめた(アーニーの戦争―アーニー・パイル第2次大戦ベストコラム)では、既に多くの戦争物語が書いているように、最前線にいる者が武器を放棄すれば戦争が終わるなどいう楽観的なものではなく、目の前の敵を倒し、一刻も相手を降伏させることが戦争を早く終わらせることだ、ある兵士の言葉を書いている。
地理的に戦禍にはなる可能性が低いアメリカ本国との温度差もある。一 度戦争が始まってしまえば直ぐに止めることは出来ない。始まってしまえば、巻き込まれていくものなのだ。
 
かといって、今すぐにこの国がどこかの国との戦争が巻き込まれていくのか、というと、そうはいえない。最近は中国が海上に進出して、勢力を強めているものの、既に中国の市場を無視することは出来ない。(誰がアメリカンドリームを奪ったのか?(上) 資本主義が生んだ格差大国)ではウォルマートが安い商品を開発するために進出した時の話がある。納期と性能を提示して、できる者を募る。そのうちにいくつかの企業は力をつけてくるし、単にアメリカの言いなりになっているわけでもなく、中国に進出して開発するように仕向けており、(これに対してバブル期に進出しようとしてきた多国籍企業に日本は拒否反応を示したのとは対照的だとしている)商売上手で、駆け引きがうまいのは最近のインフラ受注のニュースでも見て取れる。
 
国として戦争に向かわせる(というよりも一部の急進派を国が抑えることが出来ない)状況は景気(経済)の問題に起因する。日本が戦争に向かわせたのは世界恐慌のあおりを受けて輸出が急激な低下をし、外貨が不足し、国の発展必要な産業の原料が購入できなくなり、失業者が増加し、国内で解消することが出来なかったために、国外に目をむけた急進派の動きをとめることが出来なかった(ジョンソン米大使の日本回想)とある。毎年のように終戦記念日が行われその頃の悲惨さは語られるが、単に「反対」を表明するだけでは何も変わらない。
 
青年は社会に問題があらわれてくる時、問題の根源を突きとめてそれを地道に解決するのではなく、漠然とした不満や不安感から行動するのである。だから、それは問題の解決にはあまり役立たないが、問題があることを示す点では最も早い。「世界地図の中で考える (新潮選書)
 
 
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国内で起きたことに目を向けると、初めに書いたように、オリンピックに関するふたつの白紙撤回があった。招致の際には国内での盛り上がりに欠けることがネックになっていたように思うが、いざ動き出した後のやり直しの姿を見ていると、何らかの形でオリンピックを作り上げる過程に参加をしたいという思いを感じる。皮肉なことに競技場の話題が盛り上がったのは当初は景観の問題だったものが、金額の話になったとたんに誰もかれもが話題の俎上に金額の問題を挙げ、金のかかるデザインと目される構造に目を向けさせられ、競技場の在り方は脇に追いやられた。エンブレムも閉鎖的な選出方法に疑問が向けられ、多くの人に門戸が開かれたが、その分デザインを語るためのスペースはなくなった。いわゆる専門家に対して欺瞞の目が向けられるようになったが、権威に重きを置く姿勢は直ぐには変わらないだろう。しかしながら、企業の名前を見ただけで不祥事があるかどうかは分からない時代になってきている分、目につきやすい名前だけではなく、取引構造までも見極める視点が必要になってきている。
 
オリンピックとは別の面でショックだった事件は新幹線で起きた自死の事件で、年金受給者の生活苦の問題が取り上げられた。格差、という言葉が語られるようになって久しいが、今年の初めはフランスの経済学者Pikettyの著書が話題となった。(効率と公平を問う)では、同世代間の中での格差があり、それを埋めるための政策がとられていないことを指摘する。また、(文明が衰亡するとき (新潮選書))では、福祉国家は政府は疲弊する(一方では国家に手厚い補助やサービスを要求し、一方で国民は負担を望まない)と説く。最近の話題では軽減税率を導入して低所得者の負担を軽減したいが、一方で財源が不足している。しかし広く負担を課す消費税は選挙を戦ううえでも国民にとってもマイナスである。無理が通れば道理が引っ込むではないが、既にどこかで負担を軽くすると、どこかの負担が重くなることは避けられない。低所得者や弱者の負担増にくらべて高所得者の負担増は当たり前のように進行しているが、彼らが国に見切りをつけて離れてしまうことも考えると薄く広く負担する消費税が最も公平ではないかと感じている。
 
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長々と大風呂敷を広げて書いてきたものの、今年の初めに作家の木内昇さんの講演で聞いた一言「すぐに誰かが答えてくれる環境は便利だが、一方で自分が考えることがなくなることに危うさを感じる」を胸に止めておきたい。兎に角新しいことはすぐに更新されていくものの、上書きされていく一方で沈殿しないで忘却する一貫性のなさは忘れたころにまた同じ過ちをおかすものだから(フランス料理を私と)である。