まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

当たり前の存在

すごく親しいわけではないけれど、どこかでその人が生きている事を当たり前のように思っている、そんな人がいる。
普段は当たり前のように生きていると思っているから特に思い出すことはない。水面の中の氷のような存在だ。あるきっかけがあってふっと思い出せば、こんな感じだったな、としばし思い出にひたる、そんな人。
 
ある時、小学生の頃の同級生が病気で亡くなったと知った。しばらく茫然としながらも、もうずいぶん前のことではあるけれど、一緒に過ごした時のことを思い出していた。その人とは一時期仲が良かったが、学年が変わった後は疎遠になってそのままだった。だけど、どこかで当たり前のように生きていると思っていたのだった。
 
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インターネットに触れるようになってからいつの間にか10年以上たっている。
その間に直接お互いに面識はないものの、ブログを通じて、最初に書いたような私にとって当たり前の存在になっている人ができた。
その人を初めて知ったのは就職活動をテーマに書いていたブログだった。学部時代に就職活動をしていた頃にたまたまそのブログを見つけたのだ。事細かに状況を伝えるものではなかったけれども、定期的に更新されていた。就職先が決まらない不安定な時期だったにもかかわらず、サービス精神が旺盛な性格なのか、自らの変顔をブログに載せていた。(見かけはきれいな女性だったのだけど。)
 
ブログを読んでいくと、自分と同じ年であることを知った。その人は最終的に迷いながらも就職活動に区切りをつけて、それと同時にそのブログの更新は終了した。
自分はというと一度就職活動を保留にし、2年後に大学院を卒業した。2度目の就職活動の間も更新されないことは分かっていないことを知りながらも時々はその人のブログを見ながら、いつ終止符が打たれるのか分からない悶々とした時期をすごしながら、いつかはこの人のようにすっきりと活動を終えたい、という気持ちになっていた。
 
無事に活動を終えたとき、その人の最後のブログに感謝のコメントを書いた。
 
その後その人のことはどこかで生きているんだろうな、と思いながらも過ごしていた。
数年後ふと思い出したように、Googleにその人の名前(あだな)をいれてみると、その人は会社勤めをしながらも新たにブログを書きだしたようだった。だが、しばらく前に更新は途絶えていた。
 
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ブログよりもつぶやき感覚で簡単に投稿できるTwitterが広まったころ、自分もブログから離れ、Twitterを目にしている時間が長くなった。
 
ただ、去年あたりからはまたブログに戻ろうという気持ちになっている。Twitterは絶えることのない川のように流れ、消えていく。FavやTogetterで気になったものを繋ぎとめておこうとするけれど、断片的で曖昧でそしてうるさい。
 
しかし、ブログはその時のまま、残っている。(消されない限り)
 
つい昨日Twitter上でその人に子供が生まれる予定だということを知った。既にその人はブログ上にはいないけれども、彼女の親友のブログ上で数枚の写真が掲載されていた。
 
これからもその人とは多分会うことはないだろう。ただ、その人が生きていてよかった。という気持ちがこみ上げてきた。
 
さきっちょさん、おめでとう。