まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

欲望と感覚

食べるために生きているわけではない。けれど、おなかが空いている時は、「とりあえず何でもいいからおなかが一杯に食べられればいい」、というよりも、「少なくてもいいからおいしいものを食べたい」という気持ちの方が強くなってきたことを感じている。
 
それを意識しだしたのは、あるチェーン店の近くを通った時に感じた違和感だった。それまでは、何とも思わなかったのに、その匂いをかいだだけで気分が悪くなったのだった。そこはこれまでに何回か利用したことがあるチェーン店だった。甘いたれの中に肉を煮込んでいると思われるそれは、昔であれば、食欲をそそるものであったのだが、今となってはそれを避けるようになっている。
 
また、ある時からは精肉店の前を通りかかったときに漂う揚げ物の匂いがいいにおいに思えなくなってきた。
揚げ物自体は嫌いではない、けれどもどうやら脂の匂いに敏感になってきたようだ。
 
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以前ノロウイルスに感染した時、症状が悪化してく経過を振り返ると、時と共ににおいに敏感になってきたことが印象に残っている。普段は特に意識しないほど微量に漂っている匂いに気持ち悪さを感じ、おう吐するという体験をしているときには、つわりも同じようなものなのだろうか、とその時感じたのだった。電車でひと駅移動するだけでもその社内の空気が息苦しく、数駅ごとに下車を繰り返し、ホームで深呼吸をして気分を落ち着けながら自宅に戻ったのだった。
 
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納豆は好きでよく食べるのだが、その時には付属のたれをつけて食べない。醤油もかけない。
思いのままにかき交ぜて、口の中に入れる。豆の発酵した香りが口に広がる。物足りなさがないわけではない。
口の中で柔らかい豆をつぶしながら、口の中が粘っこくなりながら、「醤油の辛みが入っていたらもう少しおいしんじゃないか」とは思っている。しかし一方で、納豆の素材の味をそのまま味わっていることにどこか安心感が生まれている自分に気づく。それは豆の味を感じとれているな、という自分を納得させる行為なのかもしれない。
 
それでも、以前は付属のたれをかけて納豆を食べていたことがあった。けれど、その時は、初めにたれの味を感じ、それが麻痺した頃に納豆の味がやってくる。納豆を食べているのに、食べている味はタレのそれであり、食感だけ納豆というおかしなことになっていたことに気づいてからは、その食べ方を改めた。
 
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村上龍の「希望の国のエクソダス」という本がある。本の内容は中学生が日本の中に新たに独立国家を作るまでを主人公であるフリーの雑誌記者の目線で追うという刺激的なものだけれど、その本の中に主人公の彼女が懐石料理の蘊蓄の話をする場面が出てくる。
 
懐石料理は食べる人の喪失感を和らげ、パッシブにしてくれる。他の料理は一つの料理を食べるのにまとまった時間がかかり、同じ味付けの料理をずっと食べていると、どれがどんなにおいしくてもふっと何かを思い出してしまう。けれど、懐石料理にはひとつひとつの料理を短い間で食べられて、料理が出てくる順番も考え抜かれていて、盛り付けも洗練されている。音楽にしても、絵画にしても本当に美しいものを鑑賞するとどこか疲れるものだけれど、懐石料理は食べる人を疲れさせることがない。
 
本の本編とは直接関係のない雑談のようなものだったけれど、印象に残っている一節だ。
本には懐石料理の何が喪失感を和らげるのかは書かれていない。勝手な想像ではあるけれど、食べるときに抵抗がなく、味の際立ちがない懐石料理は、噛み砕いているだけで味がする食べ物よりも、味が薄いそれは味を感じるために意識を集中させることにより、他に働いていた意識(喪失感など)が薄れ、結果的に喪失感を和らげているのではないだろうか。
 
納豆を何も味をつけずに食べる行為もこれに近いのではないかと思っている。食べている間に際立った味のないものから味を引き出すように感覚を研ぎ澄ます行為。
残念ながら、懐石料理のそれとは違い単品ではあるけれど。