まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

惡の華

※原作の内容に触れているので未読の方はご注意ください。
 
アニメはほどんと見ないし、率先してみる方ではない。
 
見るとしたら大体後追いで、Twitterでリストに入れている人が話題にしているものであれば興味がてら見るという順番である。なので、初回から見ることはなく、何話か進んだ状態で見る。
 
もちろん途中から見ると最初はなんだか分からない。けど、大抵面白いと思えるものは途中からでも面白いものだと思っている。途中から見だしておもしろいものは原作を読んだり大抵最後までみて、全体を通して見たりする。
一度はまってしまうと最後まで見だしてしまうタイプなのかもしれない。(といっても途中で見るのをやめたものもあるけれど)
 
原作があるのにわざわざ映像化するのだからそれには何らかの意図があるのだろうとおもっているので、原作に忠実かどうかはあまり気にしない。しかし、原作が持っている雰囲気は映像化の時もそれに近いものであってほしいと思っている。
 
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表題の惡の華はたまたまアニメが始まって間もないころにTL上に原作となる地元の中学校に通っていたというのを見て気になり、アニメを見るよりも前に原作を読んでみたのがきっかけである。
読む前は「放浪息子」を過激にしたようなものだろうか、と思っていたのだが、原作を7巻まで読んだ感想は倫理の授業で習った思春期の話である。学校という閉鎖された空間で鬱屈とした時を送りながら、何かに気づき、それに突き動かされて、周りも振り回されていく。
 
単行本のあとがたりに原作者の押見修造氏ががこの作品は「思春期の終わりを発見する」と書いていたのも印象に残った。基本的にはこの本は自身の原体験が元になっているという。
 
原作を読んだ後に映像となっているアニメを途中から(2話から)見る。感想を検索してみると、内容というよりもキャラクターの違いに焦点が当てられており、内容に関するものがほとんどなかったことに愕然とする。
もともと仲村が美形でロトスコープという技法を取られていることもあってか、表面上の理由で見るのをやめるという記述を目にしていた。原作者と製作者側はできるだけ忠実に作っていると読んでいたので、キャラクターの原作と映像とでの差は私自身は気にならなかったのだが、キャラクターの容姿を一致させないことで見る側へのフィルター(この作品はキャラクターの外面ではなく、あくまで主体はこの物語のテーマ:思春期の終わりを発見する、にある)をかけていたのかもしれない。
 
どちらかというと目にするのがめったにないロトスコープを使っていることによる違和感はあった。実写ではなく、あえてロトスコープにした理由は始めてみた段階では分からなかった。しかし、徐々に映像に目が慣れていくのと、ロトスコープという手法が持つ映像の強さに惹かれていく。
 
どこかで読んだのだが、アニメは描きたいものだけを描く。(逆にいえば、描きたくないものは描かなくてもいい)けれど実写には撮ったもの全てが映り込んでしまう。ロトスコープはいわばその中間のようなもので、映像で撮ったものをアニメにするときに、不要なものを取り除くことができる。その一方で、映り込んだものを実写で撮った時よりも強烈な印象を与えることもできる。
 
 
惡の華は群馬県の桐生市が舞台で、中学校に登校風景の景色や看板だったりが映り込んでいるが、古くなった看板のかすれ具合だったり、信号の点滅が不気味に鮮やかだったりしているのが印象に残っている。
それらは登下校中の春日や仲村の視点からみたものとして描いているのかは不明だが、そうした風景が彼らがクソムシと呼ぶ閉塞感に満ちた空間を構成する一部となっているのかもしれない。
 
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既に原作を読んでいる身としては果たしてどこで、どのように終わるのかが気になっていた。
話の進み方はどちらかというとゆっくりだった。かといって冗長ではなく、登場人物の心情に忠実に描かれていたと思う。真夜中の教室に忍び込み、自らの罪を告白するとともに、自分の本当の姿を教室にぶちまけた後にそれぞれの家路に着くまでのシーンは特に言葉を交わすこともなく、歩き続けるだけだったが、彼らの足取りや周りの景色からは一つの大きな事をやり遂げたことに対する解放感と充実感と間もなく訪れる他人に知られることへの緊張感が入り混じっていた。
 
また、雨の降る山の中で仲村と一緒に”向こう側”に行くのか、彼女である佐伯を取るのか、というジレンマに陥った春日の緊張状態から彼の両方向にのしかかる2人の重みに耐えきれずに、これまでの頭でっかちの自分を空っぽであることを独白するシーンは原作よりも迫力があったと思う。
 
そして訪れた最終回は過去に巻き戻り(0歳の春日まで)、原作では少し先に起こることまでもが断片的に流れてゆく。そしてこれまでこのアニメで見たこともなかった燃えるような夕焼けの中で春日は仲村の前にいくことを選択する。どちらかというとある事件をきっかけに仲村に弱みを握られていた春日が初めは仲村に無理やりレッテルを貼られることになるのだが、仲村と佐伯という2人の天秤にどちらも選べない自分に気づいた後に選んだのは仲村の側だった。それは事件が起こる前からマイノリティ側であった春日が、同じく自分よりもよりマイノリティ側にいる仲村に手を差し伸べることで、彼女と自分の”向こう側”に行くことで救済されるのだろうと考えたのだろう。一方で佐伯はいわゆるマジョリティー側(勉強ができ、人気者である)でこのまま春日がいなくなっても、誰かが手を差し伸べられると考えた。しかし佐伯には周りに本当の理解者がいなかったのでたった一人の理解者になりうる人間が春日だったためこの後の彼女の行動は豹変してしまう。
 
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既に思春期を通り過ぎたものばかりだと思っていた自分にとって、この作品は忘れていた古傷を思い出させるものだった。この本と同じとまではいかないが、中高生の頃には大人に対する不信感もあったし、閉塞感もあった。
しかし、大学を卒業後に自分の仕事で金を稼ぐことを始めてからは、いわゆる不信感というものもいつの間にか消滅していた。それに、仲村がいうクソムシという言葉にもそれはただひとつの面をあらわしているだけにすぎない(平野啓一郎さんのいう分人のように)のだ。原理主義に陥りそうなときには自らが木しか見ていない環境にいるのではないか、と今になっては考えることもできる。
しかし、中高時代にこの本を読んでいたなら間違いなく仲村の視点に影響されていただろうし、そこから抜け出すのには時間がかかっていただろう。だから知るのが遅くて安心しているのが正直なところだ。
 
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製作者側のこの作品にかける思いは映像を見ているだけでも伝わってきたが、最終回が放送された今日、制作スタッフのトークショーに参加することができた。特に印象に残っているのは主演のアフレコと長濱監督のこだわりである。アフレコを見るのは初めての経験だったが、感情のぶつかり合いは例え声だけであっても、そのすさまじさは見る者を放心させ、演技者は床に倒れ込むような消耗するものだった。それがビシビシと伝わって鳥肌が立った。一方、監督のこだわりは美術や動画というアニメを構成する部門にも監督の権限を与え、彼らの決定権は長濱監督よりも上にすることで、彼らのプロ意識を高めると同時に、長濱監督自身も取るに足らないとおもわれること(マンホールを踏む音など)にまで意識を向けて作っている事を知る。時間がない中で楽をする理由はいくらでもできるが、それをしないのは見る側のシビアな目を裏切らないため、というプロ意識によるものだった。
これを聞いたときに以前デザインあの解散シリーズの話を聞いた時に出た話題を思い出したのだった。
 
1部完という形で区切りをつけてはいるが、遠くない時期に2部が始まるのを静かに期待している。