まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

信仰の現場

ナンシー関という芸能人のハンコを作ったり、また彼らを毒舌で批評したりしている人がいたのはなんとなく知っていた。ずいぶん前に亡くなったこともニュースで聞いたような気がする。しかしその頃芸能に特に興味もなかったので、とりたててすすんで読みたいとは思っていなかった。

 

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最近とある飲食店で食事をしようと思い、店の近くに行くと行列ができていた。その店はオープンして間もなく、また報道で取り上げられたこともあり、行列に並ぶことは想像に難くなかったはずだった。店の開店は早いので多分30分も待っていれば入れるのだろう。しかし私は結局その行列には並ばなかった。「落ち着いた頃にまた来よう、店が逃げるわけじゃない。」

 

その時自分が行列に並ぶのが苦手であることを再確認した。元々行列に並ぶのは苦手だった。なぜなら、行列に並んでいる間に手持無沙汰になるからだった。しかしこういう時に暇つぶしができる格好のアイテム、スマートフォンを手に入れても、やはりその苦手意識は変わっていなかった。別の理由を考えてみたところ、行列にならんでいるのを道行く人に見られるのが恥ずかしさを感じている、ということだった。このことに気づいた時、ただの自意識過剰なのではないか?とも思った。というよりも行列に並んででも手に入れたい欲望を露わにしている自分の姿に対してである。親からそのような教育は受けてはいなかったとは思うが、どこかでそう思うきっかけがあったのではないかと思っている。

  

そんな時、ある方のつぶやきでナンシー関の「信仰の現場」という本の存在を知る。信仰といってもいわゆる宗教ではないが、イベントに参加している人達が何故そのイベントに参加しているのかをナンシー関がイベントの現場を取材してまとめている。


コラムに描かれていたのは平成一ケタ台の出来事でほとんどが初めに目にする出来事だった。

彼女がいう信仰とは例えば矢沢栄吉のライブコンサートであったり、笑っていいともの生観覧だったり、正月の福袋の行列に並んだり、こども劇団に参加する親子等だった。笑っていいともの生観覧やウルトラクイズの予選会では最初は参加しながら周りを冷静な目でとらえてはいるが、いつの間にかナンシー関も一体になって参加することを楽しんでいるものもあってなんだか微笑ましい。ただ、それはほんの一部であり、ナンシー関は冷静な目で何故彼らがそれに熱をあげているのかを分析している。

何かを盲目的に信じている人にはスキがある。自分の状態が見えていないからだ。しかし、その信じる人たちの多くは、日常生活において、そのスキをさらけ出すことを自己抑制し、バランスを保っている。だが、自己抑制のタガを外してしまう時と場所がある。それは、同じものを信じる”同志”が一堂に会する場所に来た時だろう。全員が同じスキを持っているという安心感が、彼らを無防備にさせる。日常生活では意識的に保とうとしなければ「傾いている」と世間から非難される彼らのバランスも、その場ではその「傾いたまま」の状態で「正」であるという解放感。肩の荷を下ろしたように無防備に解放されるのである。(導入部)

よく女の子は世の中を「かわいい」と「かわいくない」の二つのみで斬りながら生きて行く、とよく言うが、これと絵本崇拝者は似ているようで全く違う。女の子は本能で判断するが、(それ以外に基準を持たない、というのもある)、絵本崇拝者は計算ずくだ。これは絵本的であるかどうかを瞬時にして判断し、認めると認めないに振り分ける。例えばいくら好きな色形をしたものがあっても、それが環境破壊につながるプラスチック製品であれば絵本的じゃないというふうに。”(絵本の館クレヨンハウス)

思うのは「主流(流行、とも言いかえられる)に乗る)」ことに対する抵抗感の消失の見事さである。抵抗感のあるなし、へそ曲がりと素直、どちらがいいといっているのではない。今の「主流に乗る」若者の何も考えてなさ加減と同じように、10年前の若者の「(とりあえず)主流を否定する」も実は考えなんかなかったような気がする(皇太子妃御成婚パレード)

 

初売りの行列は今でも見かけるし、Appleの新商品を買うために前日から並ぶ人もいる。ナンシー関は信仰という言葉を使っているが、行列は並びたくなるものであったり、野次馬的にただ単に気になってつい、ということもあるだろう。信仰という言葉で表すには取るに足らない出来事ではあるが(Appleの場合は信仰かもしれないが)。流行り廃れはあるにせよ、人が思わず参加したくなる物の類は少しだけ時計の針をすすめたからといって洗練されるものではない。

 

インターネットが当たり前のように使われ、昨年から事あるごとに炎上している事例等を遠目から見ていると、もともとインターネットが誰にでも見つけられる場所になってからは燃え上っている話題をまとめサイトに行けば、あっという間にその輪に加わることができてしまう。世間一般の流行とまでの認知度はないだろうが、それでも場合によってはTVや新聞に取り上げられるまでのニュースになることもある。

 

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あとがきでは共通の話題を介せば簡単に他人に心を開いてしまう人達の異常さに警鐘を鳴らしていた。取材として選んだある分野に関連して殺人事件が発生していたのだった。

この本が出版された当時インターネットは一般に普及していなかった。インターネットが当たり前のように使えるようになって誰とでも簡単に共通の話題を通じてコミュニケーションができるようになった。その一方で家でパソコンの前でくつろいでいても無防備になることもある。

 

ちなみにこの本で取り上げられていた行列の話は正月の初売りと歌舞のチケットを取るために並ぶものであった。どちらも私が期待した恥に関する記載はなかった。歌舞伎のチケットで高齢の人が2日徹夜して並んで待っており、それがあまり苦にならないように書かれていたのが衝撃だった。(近くにストーブやお茶の支給はあったというが)

 

ナンシー関がまだ生きていたら信仰の現場としてどの場所を選ぶだろう。

おそらく某夢の国はエントリーしていることだろうが。

 

信仰の現場―すっとこどっこいにヨロシク (角川文庫)