まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

責任とおもてなし

通勤で使用しているターミナル駅がしばらくの間工事中である。その間工事が始まる前よりも通行のスペースが狭くなっている。複数の路線に接続する駅なのでラッシュ時には人が入り乱れて入るものの、一定間隔で整理員(警備員?)がラッシュ時の人の流れを捌いている。
 
毎日のように整理員は同じように声をかける。
「この時間は右側通行となっております」「走らないでください」「階段は二列になってお進みください」
「歩きながらの携帯電話の操作は危険です」など。
 
最初のうちはごくろうさまです、とは思ってはいたが、毎日毎日同じようなマナーの繰り返しが耳に入ってくることに耐えられなくなった。「ここは小学校のホームルームじゃない。」
それからは一度駅の外に出てから接続する路線に向かうようになった。
 
彼らはもちろん仕事としてあのような言葉をかけているのだろう。駅を使うのは何も毎日通勤・通学で使用する人だけではなく、その駅を初めて使用する人もいるだろう。
もし、彼らがいなければ、幅が狭い接続口で通行人が衝突して毎日のように何らかの事故や喧嘩が起きていたかもしれない。
 
 先日ある鉄道音楽の作曲家の方の話で、「日本では電車に人を乗せるのは鉄道会社側の責任だが、海外ではその責任は負わない。」という話題が出た。この違いは何度か海外旅行で訪れた時に身をもって体感している。また、海外ではたとえ切符を買っていても、Valid(有効)していないと後で罰金をとられることもある。
また、車内の案内などほぼないに等しい(特急列車などは別だが)ので、次の駅がどこなのか分からないので最初のうちは路線図が手放せないが、慣れてくるとこちらの方が静かなのだ。
 最近の日本では車内のデジタルサイネージで「携帯はマナーモード」だったり「優先席は体の不自由な人に譲ってください」などと知らせるようになったのでだいぶ静かになったが、目に入ってくるだけでも煩わしく「もういいよ」と思わず顔をそむけたくなる。
 
去年2020年に東京オリンピックが開催されることになり、「おもてなし」というキーワードが話題になった。
それは、原研哉の「日本のデザイン」で書かれている日本の美意識(清潔、丁寧、規則正しいなど)のことだろう。確かに石畳の道路は歩きづらいし、公共トイレの環境の差は大きい。
 ただ、その一方で以前から気になっているのは利用者にとって快適な目に見える形として作ることだけがおもてなしなのだろうか、ということだ。
例えば、数年前にパリのメトロで。駅はほとんどバリアフリー化されておらず、階段がほとんどだった。そんな時ベビーカーを押している母親が階段に差し掛かる。日本だったら夫婦で上げ下げしたり、そもそも持ち運びにくいので背中に背負う人もいるだろう。しかしパリでは通りがかりの人が直ぐに手助けをしていた。日本では全く見ない光景だったのでその時は衝撃だった。例え駅の設備は未熟でも利用者側が互いに助け合う心掛けを持っていれば対処できることもあるのだ。
 
冒頭で挙げた行き過ぎた丁寧さはいつ起こるか分からないクレームに対する保険なのかもしれないが、
その丁寧さに甘んじて、何かの不具合があれば彼らに責任を。という関係は責任の所在は明確になるかもしれないけれども、それは水のないぞうきんを絞るがごとく際限がなく、窮屈になる一方だ。
快適な環境を享受する側にもっと自律を求めることがあってもいい。
 
 

日本のデザイン――美意識がつくる未来 (岩波新書)