まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

曖昧な言葉達

  

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから
 
(マザー=テレサ)
 
Twitterを始めてから何回か目にしたこの格言は思考で始まっているけれども、思考を操るには言葉が必要で、最終的には運命になる(最後は飛躍しすぎだとは思うけれども)、考えるためのツールとしての言葉が重要なのは言うまでもないことだろう。
 
 けれども、当たり前のように使っている母国語、すなわち日本語の曖昧さに時にいいようのない憤りを感じることがある。最近ではW杯で日本代表がグループリーグで敗退した時に使われた「自分たちのサッカー」という言葉で、
記憶をたどると隣国からの威嚇に似た軍事行動に対して相手を過度に刺激しないために使われた「遺憾の意を表明する」という言葉だ。どちらも「何かを言葉で形容しているように見えて、何を言っているのかはっきりしない」言葉が多いように感じてはいたものの、それが何によるものなのかを調べてみることはなかった。
 
 しかし、最近平田オリザの「演劇入門」を始めに、そこで紹介されている本を読んでいくと、どうやら日本語そのもの自体の歴史が浅く、また、曖昧なものが多い理由も見えてきた。
簡単に書くと、明治時代までは日本語は漢語・漢文とヤマトコトバによって成り立っていた。漢文は深い思考及び叙述をつかさどるのに用いられ、ヤマトコトバは漢文にはない情緒的な表現をあらわすものとして生まれた。明治時代になり、日本に相次いで大学が設立された時には講義は外国語で行われていた。しかし、その後数10年で外国語を日本語に翻訳し、日本語の教科書で勉強するようになった(この時多くの新しい言葉が生まれた)。さらに第二次大戦後、日本が戦争を始めたのは漢字文化のせいである、と占領軍が判断した結果、漢語・漢文は日常的に使われることはなくなり、ヤマトコトバが主流になった。
 
漢字文明圏からの離脱とは、3つの現実をもたらす。
1、精密な表現のために漢字が使われなくなること
2.新語を作るときに漢字を使わなくなること
3.人々か漢字の読み、書き、理解に対して正確さを保つようにという意識を失うこと
これによって生じる欠落を補うために語彙を新しいものに変え、作り出さなくてはならないのだが、ヤマトコトバを使って新語、ことに科学用語を作ることは極めて難しい。
なぜなら、日本人は物事を客観的に精密に観察し記述するという伝統を持たず、物事を情緒によって受け取ることを心に向けてきた。したがってヤマトコトバは、科学的厳密さの記述よりも、情緒のこまやかさを表明するための語彙を多く持つ言語となっているからである。
大野晋 日本語の興亡)

 
 当たり前のように使っているような言葉がまだ1世紀ほどの歴史しかないことに驚きを隠せなかった。
平田オリザは「分かりあえないことから」の中で日本語の未成熟さを表す状態として、日本語には対等な関係でほめる語彙が極端に少ないと指摘する。上に向かって尊敬の念を示すか、下に向かってほめて遣わすような言葉はあっても対等な関係のほめ言葉があまり見つからないという。実例では病院で看護婦さんとのやり取りに思わずむっとしてしまう中年男性であったり、女性上司が男性部下に対して使う言葉遣いなどである。
茨木のり子のある詩に(タイトルを忘れてしまったが)女の子が男の子の言葉を使うのを戒める内容のものがあった。男言葉、女言葉はどこかの授業で教わったのか覚えてはいないが、今後日本語が使われていくなかで、そういうものも過去のものになるかもしれない。
 
流行語や新語は毎年のようにでてくるが、まだまだ言葉としては未成熟のようだ。何かというと直ぐ短縮して使う言葉を日本語の乱れとして嘆く人もいるが(私自身も率先して使うことはしないが)漢文学者の鈴木修二は短縮語(言語学的には短絡語というらしい)をこう評している。
 
 しょせん言葉は、放っておいても、文明の進度に合わせて、スピード化し、簡略化の方向に向かうものである。したがって、「短絡語」がうまれるのは、世の自然の成り行きなのである。言葉の学者はとかくすると言葉の乱れの身を指摘して、保守的な言葉をよい言葉として進めようとするが、無駄な努力に近い場合が多い。便利だから人が使う、使うから普及する。それが言葉のそもそもの伝播なのである。流行の「短絡語」も、人々に愛用され、公民権を得るならば、立派に辞書にもその位置を占めてくるし、やがてはうるさい言葉の先生から推奨される言葉にもなってくるのである。
 
 ことばというものは、絶えず変動し続けるということを前提にして考えるのならば、世のスピードに合わせて言葉はさらに要約され、新しい「短絡語」が生まれてゆく方がよいということも言える。庶民の間に漢字が生きているがために、色々と新しい漢字利用の「短絡語」が工夫されるのである。そのエネルギー、その活用の力を、むしろ喜びとしたいものである。
(漢語と日本人 鈴木修次
 
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普段何気なく扱う言葉は曖昧で流動的であることを頭に入れた今は少しだけ言葉が持つ曖昧さを許容することができるようになった。ただ、曖昧さを有するがゆえに、相手に伝わらない
こともしばしばである。従ってこの曖昧さを持ちつつ、言葉を扱う時には注意したい。それはもしかするといつの日か運命になるかもしれないからだ。