言葉とその許容について
以前当たり前のように使っている日本語がどのように出来上がったのかをあっさりと書いたのだけれど、その時は書かなかったけれど、最近また思うことがあったので具体的に書くことにする。
例えば
死にたい、は自殺したい、という意味と同義ではなく、最悪(英語で言うとfuck)のような意味合いで使われている。
メンヘラという言葉も精神障害があるという意味では使われてはいないようだ。
また、複数の意味を持つ言葉では
ヤバい、とか、かわいいがある。
私の理解では、
ヤバい:驚き(surprise)や酷い(awful)という感情が振り切れている状態
かわいい:その名の通りかわいらしい、という意味もあるけれども、「呼応して共感している」という意味でも使われているような気がしている。
元々のその言葉の持つ意味自身が軽くなっている?とも思われるのだが、小林秀雄は「言葉の力」の中で挨拶言葉を例にしてこう書いている。
「おはよう」、とか「こんにちは」、という言葉の意味を問われたら、私達は誰でもそれはほとんど意味のない言葉だというだろうが、それならほとんど無意味な言葉を私達が使う意味はどこに在るのかを考えれば言葉の意味とは甚だあいまいなものになる。結局、意味という言葉の取りように、考え方に帰するのである。「おはよう」という言葉の意味を観念の上から考えれば、むなしい言葉になるが、これを使う場合の人間の態度なり、動作なり、表情などの上から考えれば、人間同士の親しみをはっきりと表すことなになるだろう。だが、ふつう私達はそう考えない。「おはよう」は言葉というよりもむしろ、挨拶だと考えるだろう。それほど、私達には言葉というものを考える場合、言葉の観念上の意味を重んずる風習が身についているのである。学問や知識の発達によって、私達の社会は抽象的なあるいは観念的な言葉の複雑広大な組織を要しているので、生活や行動のうちに埋没し、身ぶりや表情の中に深く入り込んで、その意味などはどうでもよくなってしまっているような低級な言葉を、もはや言葉として認めたがらない。」「言葉の力」 小林秀雄
言葉の観念上の意味を重んずる、という考えに注目すると見えてくることがある。
正確な意味をあらわすのであれば、硫化水素だろうが、「伝わっているか」という点で考えると「硫黄」でもおかしくはない。逆に硫化水素という言葉を使ってそれを耳にした人が馴染みがなければ(どんな匂いなのか想像つかなければ)、その伝わり方の意味をなしていないのだと思う。
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では、いわゆる、観念的に用いられる言葉が使う側にとっていいことなのか、というとそうでもなさそうだ。
「図書」(昭和55年)の中で「東京ことば」という題目で作家や国語学者が座談会形式で言葉について興味深い内容が書かれている。
先にあげた例でいうと、ヤバいという言葉は表現として振り切れてしまっている。英語でいうなら中間の比較級をすっ飛ばして最上級を使っている、といえばいいだろうか。
ヤバいを数値として振り切れている状態として-100と+100をあらわすのであれば例えば中間の-50であったり、+99に該当する言葉はなんだろう(普段どういう言葉を使っているのだろう)と振り返ってみるのもいいのかもしれない。
この座談会はは30年以上に行われたものだけれども、すでに言葉の使われ方についてこのような指摘がされていたので、今に始まったことではないことが分かる。ただ、Twitterのようにいわゆる話し言葉のように書き言葉がボタン一つで投稿され、それが無数の目にさらされると、言葉の使われ方はこれからも否応なく変わり続けていくのだろう。
恐らくこのような状況を楽しんでいるのは辞書を作る人達で、いわゆる流行り言葉を辞書におさめたり、言葉の意味を新たに追加するときに判断する材料として将来的には使われていくのではないかと思っている。
(Twitterが広まったのは体感的に2010年以降ととらえている。期間としては4年とまだまだ他のメディアに比べると未熟なので、辞書の編纂に考慮するメディアとしてはまだ様子見の段階だとおもう。しかし、言葉の使われ方を調べるサンプルとしてこれほど適したメディアもないのではないか、とも思っている)
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最後に日本語という当たり前に使っている言語に疑問を持つきっかけとなった本から印象に残った一節を紹介。
言葉というのは一筋縄で操れるものではない。「おめでとう」という言葉を放ちながら、むしろ自分自身の破れた夢の苦さだけを伝えてしまう人も多い中、「また何かしでかした、困ったもんだ」といって、出世第一の世の中に皮肉なまなざしを向けながらも同時に友人に曇りのない祝辞を伝えられる人もいる。 素直に気持ちを伝えればいい、といってもそれが難しい。言葉は素直ではないし、そもそも言葉は心とは別の生き物で両者をつなぐ直線は初めから存在しない。「よかったね」と「がんばろうね」しか耳にしたことのない子供は、なにもよいことなんてなくて全くがんばれない状態におかれた時、どうすればいいのだろう。
一度発せられた言葉は、発した本人には想像もできない解釈をされることがある。そのことに傷ついて黙ってしまう人もいる。そういう弊害を少しでも減らすために、言語には「言葉どおりの意味」という絶対安全な足場はないということ、それでも言語には無限の可能性があるのだということをもっと伝えたい。
”「言葉と歩く日記」 多和田葉子
曖昧でありながらも言葉の持つ意味は常に変化する。正確性をむげに求めると窮屈になる。
「なんとなく」という曖昧なままを保ったまま遠目から変化し続ける言葉を見守っていたい。
ちなみに、今回引用した「言葉の力」、「東京ことば」はこの本に入っている。
残念ながら絶版になっているけれども図書館で読むことができる。