まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

望むものと求めるもの

先日 ある作家の外部の労働者の受け入れについて、物議が交わされた。
 
記事の内容は、労働力の減少は止まらないのであるから、条件を緩やかなものにして、受け入れればよいのではないか、という主張であった。
しかしながら、後半にかかれている、受け入れる際には住む場所を分けたほうがいい、という一部分がいわゆる(南アフリカで行われていたような…この件は本文には書かれていないが、複数の読み手に渡った結果、尾ひれが付いて解釈されたもの)人種隔離なのではないか、という指摘があり、海外にも問題が飛び火した。
 
既に移民を受け入れている国においては、国が住む場所を指定していなくとも、自然発生的に、近隣に住むようになる。それはチャイナタウンを想像すればわかるように、その国にとって異邦人である国籍の人達がバラバラに離れて暮らすよりも、固まって住んだ方が何かと便利だからだ。(例えば食生活しかり、相談相手など)
 
日本においても西葛西にインド人が多いことは知られている。


IT技術者への需要が、西葛西にインド人街を生んだ:日経ビジネスオンライン

 
しかしながら、国が主導して国籍ごとに一定の地域に住むように強いることはできない。
後半の自論が大きく取り上げられた結果、「差別」という言葉に過剰に反応した結果、本来交わされるはずの問題が棚上げされてしまった。
 
差別はしてはいけない。ということは誰しもが分かっているはずではある。
しかしながら、例えばコンビニの店員に対して会社の人と同じように接しているだろうか。
観察していると一概にそうとも言い難い。
 
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G.Hofstedeは「多文化世界」の中でIBMの多国籍の社員に対して、国民性の調査結果をまとめている。
その中で価値観についての人々の意見の解釈をするに当たっては「望ましいもの」、と「現実に求めるもの」は別物である、と指摘する。
(この違いを無視して研究をしまうと、矛盾する結果が得られる、)
 
望ましいものと現実に求めるものとは、それらに係っている規範の性質によって区別される。
規範とは、ある集団あるいはあるカテゴリーに属している人々が共通して抱いている価値判断の基準である。
望ましいものの場合には、規範は絶対的で、倫理的にも正しいものである。
現実に求めるものの場合には、規範は統計的に決まってくる。大多数の人々が行った選択そのものである。
望ましいものはイデオロギーと関連が強く、現実に求めるものは実際的な問題と関連が強い。
 
具体的な例を示す。
 
A.環境に優しい(殺虫剤を使用していない)害虫駆除剤(ただし、薬剤を使用していないので効き目は弱い)
B.殺虫剤が入っている害虫駆除剤(薬剤を使用しているので効き目はある)
 
がある。店頭で選ぶ際にどちらを好むか、はAの方を選ぶかもしれない。しかし、現実に害虫が目の前にいて、一刻も早くその虫を退治したいと考えるとき、
「環境に優しい」から直ぐに退治できなくてもよい、とは思わないのではないだろうか。
 
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「いじめはいけない」と分かっていても、いじめは起きる。
「ダメ、ゼッタイ」といっても、薬物に手を出す人はいる。
 
○○してはいけない、ということは一種の規範である。しかしながら、その規範を繰り返すだけでは解決できない問題はたくさんある。
大事なのは、その出来事がどのような背景で起こっているのかを過去の事例を踏まえて対策をねりつつも、万が一起きた場合にどのようにカバーするのか
を検討していくことなのだろう。
 
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「起きていることはすべて正しい」 勝間和代さんが以前、現実を見つめるために取り上げていた言葉である。
今起きていることから理想の状態の差分が想像力ともいえる。
検索すれば誰かの意見が目に入りがちな今だからこそ落ち着いて考える時間が必要だと思っている。
 

多文化世界―違いを学び共存への道を探る