まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

イメージと言葉による一人歩き

新国立競技場について、実務とはかけ離れた偏りある意見が取り上げられたり、不用な悪者探しが行われたが、白紙に戻されたこともあり、少し落ち着いて考えられる時間ができた。
 
なぜこのようなことが起きたのか。デマを信じるな、ということは簡単だが、それを受け止める側はニセモノの情報だとは思っていないはずである。それでも多くの人が惑わされた理由を専門的な視点とはまた別の角度で考えてみたい。
 
 
●専門家としての意見
 
専門分野の意見として偏った考えの持ち主によるものが多く引用された。この時点で、引用する側にその意見の妥当性を判断する者はいなかった。
偏った意見に対して実務家は当初はあまりにも的外れなものとして黙殺していた。(時が経てば自然と消滅するものだろうと考えられていたからだとおもう)
しかしながら、ラジオなどで意見が専門家の意見として取り上げられ、多くの人に広まった。その結果、火消しに時間がかかった。
 
いわゆる専門家とされる人が何らかの意見をいうと、その専門分野に疎い人達はもっともらしい意見が書かれていればそれを信じてしまう傾向にある。
知らないがゆえに適切な反論もできない。また、実務家の方々も取るに足らない意見と黙殺していたが、何故その考えが合致しないのかを素人にもわかるように説明をすべきだったように思われる。専門家同士のなかで、その問題は終わったとされていても、何も知らない大多数にとっては分かりやすい意見を受け入れがちだからである。
 
 
ソクラテスは生きている言葉として対話を重視し、書き言葉を恐れたとされる。その一つの理由を引用する。
 
書かれた言葉は”あたかも知的であるように見える”ため、物事の真実により近いように思えるので、言葉が人々を欺いて、理解し始めたにすぎない物事を理解したかのごとき浅はかな錯覚に陥らせてしまうのではないか、とソクラテスは恐れた。
メアリアン・ウルフ 『プルーストとイカ』
 
薬のCMでも、有効成分○○が効く、という文言が入ることがあるが、その有効成分について知っている人は専門分野の人を除けば多くはないはずだ。しかし、なんだかそれが入っていれば効きそうだ、というのと、近いものを感じる。
 
 
複数のイメージの形成から作り出されたストーリー
競技場を語る上でのイメージとして考えられるものをいくつか提示した。当初、ザハの案が選定された時の大きな問題点は「景観」で、それについては一部の建築家によって意見が書かれていた印象がある。
しかし、それ以上に、誰もが想像しやすいのは競技場の建設費として挙げられた高額な費用だった。
 
新国立競技場のイメージ 「2500億」「キールアーチ」「景観に悪影響」
ザハ・ハディドのイメージ:「奇抜なデザイン」、「アンビルドの女王」
安藤忠雄のイメージ:「建築の専門家」「選定の責任者」
 
上記の複数のイメージからザハ、安藤氏を悪者としてバッシングが起こった。けれども、それはザハの案がどのように選ばれ、その後、誰が主体となって進めていくのかを知らないままに、「イメージ」として上記の言葉からバッシングに向かうストーリーが構成されたと考えられる。
 
 
国際政治学者の高坂正堯は1960年代に書かれた「世界地図の中で考える」の中で、この当時の日本の状況をこう書いている。
我々は一方では大量の情報の氾濫によって頭を混乱させられ、不安感に悩まされながら、他方ではきわめて複雑で、雑多な現象を「イメージ」という形で単純化してとらえているのである。それはある程度まで、昔から人間が常に行ってきたことであった。言葉は複雑で雑多な現象を、よく言えば明快に、悪く言えば単純化して表現する機能を持っている。
恐らく、言葉は人間の能力を著しく増大させるとともに、逆に人間を誤って導く点で、人間に与えられた最も大きな両刃の剣といえるだろう。
 
高坂正堯 『世界地図の中で考える』
 

●再び同じようなことが起こらないために。
 
再びソクラテスの言葉を引用する。
物事をひとたび書きとめてしまうと、書かれた文章はいかなるものであろうと、至る所に漂い出して、それを理解できる物だけではなく、かかわりのない者の手にまで渡ってしまう。
文章には、それを読むにふさわしい者とふさわしくない者をどうやって見分ければよいか、知る由もないからだ。しかも、誤用されたり、悪用されたりしたら、文章自体には防御する術も自力で切り抜ける術もないのだから、必ず、その生みの親が救いの手を差し伸べることになる。
プルーストとイカ』
 
ザハの案が決まった当初はTLを眺めていた限りでは景観の問題が主要だった。しかし、一度『2500億』という言葉がその施設に係る費用に見合った金額に対してではなく、その「金額のみ」がとてつもない高額として、誰もがその重大さに興味を持ち、反発した結果、首相の白紙撤回宣言へとつながった。
 
今回の問題で一部の実務家の中では専門家が反省しなくてはならないといち早く表明した方がいたけれども、そうではなく、情報を伝える側、そして多くの専門外の受け手も教訓として同じようなことが起こる前に何らかの歯止めをする必要があると考える。
 
以下、それぞれの立場でできることは何かを考えた。
 
 
メディア:専門家を呼ぶ側にあらかじめ専門的な知識があるのが一番だが、多岐にわたる専門を社内でカバーするのは困難と思われる。そのため、専門家の意見を聞く場合には自薦ではなく、同じ専門家でもこの人であれば間違ったことをいわないだろうという他薦で選定する。
 
専門家(実務家):明らかに間違っている意見があれば、黙殺や仲間内の中で解決とするのではなく、専門外の人に届くようにかみ砕いて伝える。
 
専門外の大多数の人:大多数が支持している意見が常に正しいとは限らない。(真理は多数決ではない)そのためには複数の専門家とされる人の考えを目にするよう心がける。
 

世界史の中から考える (新潮選書)

プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?