まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

感じる風景とリアル

 
9月の連休を使って大阪の橘画廊で開催されていた「感じる風景」の座談会に参加してきた。(現在は会期終了)というのも最近気になっている作家の方(中比良真子さん)が参加されているからだった。
 
 
中比良さんは風景画を中心に複数のテーマを描き分けている方で、今年に入ってから大槻香奈さんのTwitter経由でその作品を知る。
関西を中心に展覧会を行っているためになかなか直接作品を見る機会はなかったのだが、今回ご本人の作品に対する考えも聞くことができた。
 
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座談会の中で興味深い話題は大きく分けて二つあった。ひとつ目は「風景」という言葉がもつ意味、そしてもう一つは「写真」の存在だった。
 
風景、という言葉を日本語で使う場合、私たちは特に意識してその言葉に含まれる二種類の意味について別けてはいない。けれども、英語に訳す場合、それらは確実に区別される。ひとつめはlandscapeそしてもうひとつがscenaryだ。前者はlandscape designなどの語彙のように、客観的に認識できる空間のことを指し、後者はその人にとっての空間の解釈を意味する。各作家によって様々に解釈される風景はこの場合scenaryを意味する。
 
作品における写真の在り方については意見が分かれた。例えば、実物を見てしまうとそれをデッサンしてしまうので見ないようにする、身体で感じたものをキャンバスに描きながら明らかにしていく、カメラをもって取材をし、作品に反映する、という3者三様だった。また、あらかじめ描きたいものが決まっているか、描きながら決まっていくのかは二手に分かれた。
既に描きたいものがある場合は取材をして素材を集めてからスタートする。
最初に完成が見えない場合は、模索しながらゴールを目指す。
そこに優劣はない。
写真というとボタン一つで場面を切り取ることができる便利な道具ではあるが、それを元にキャンバスに落とし込むときに何を残し、何を捨てるのかを決めるのはその作家が描きたいものによって変わるだろうし、どこまで描くのかも決めなくてはならない。
 
ちなみに、中比良さんはあらかじめ描くものを決めてから作品に取り掛かるタイプだという。橘画廊では同じテーマに沿って描かれた風景画があったが、そこは印象に残っている風景を鮮明に描き、それ以外の部分は淡く描くように対比させている。
 
展示されている作品の中で特に印象に残ったのは水田を描いた風景だった。遠くにそびえる山よりも広大に描かれた水田はシャボン玉の膜のようにつつけば弾けそうな水に覆われている。そこは太陽の光が映り込んでいるためなのかピンク色みがかっている。
 
現実にこのような景色を見たことはないのだが、現実にあるものとして美しいと最初に見た時に思ったのだった。(最初に見たのはTwitter上だけど、直接見た時もその良さは変わらなかった。)
 
実写とアニメの違いは、前者が予期せぬ映り込みができるのに対して、後者は何を残して何を残さないかを決めなくてはならない(すべてが意図的)、という話をどこかで聞いた。
座談会には参加していなかったものの、同じくこの展覧会に参加している作家は雪山を中心に描いているものの、あえてどこの場所なのかを判別できないように抽象化しているという。(中比良さんも同じく)
 
けれども、その絵に描かれた風景が現実のものでなくとも、そこに描かれる風景を見た時に感じるものはリアルに感じられる。この現実とは異なるゆらぎのある状態であっても見たことのない世界を楽しむことが出来る。それは本でも映画でも同じことなのだ。
 
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ちなみに中比良さんは11月の中旬から東京のグループ展に参加されるようで楽しみです。