まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

大槻香奈 わたしを忘れないで展

今月から新宿のアートコンプレックスセンターで開催している大槻香奈さんの個展に行った。
 
 
大槻さんの作品を知ったのは3.11の後にチャリティー目的で開かれたSpiral(表参道)の展示だった。
その後、外苑前のNeutron(現在は閉館)で開かれた個展「乳白の空」を見に行く。
Spiralで見た時に近い作品という予想をしして見に行ったのだが、実際は内面的な作品が多かったように思う。
会期中に何度か訪れたのは会場の空間が好みだったこともあるが、ぼんやりと引っかかるものもあったからなのだろう。
手に届きそうな作品はあらかた売れてしまっていたのだが、
気になる作品があったので買うことにした。
 
一目見てどういう意図で描かれているのかがわかってしまうものはたぶん一度見たら満足してしまうだろうけれども、
何度見てもよくわからない。抽象度が高すぎると、解釈するのをあきらめてしまうが、そこまでではない。分かりそうで分からないテーマがちりばめられていた。
ギャラリーの方から今後の変換点となる作品という説明があったことも後押しになった。
それがこのblogのタイトルにもなっている。
 
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今回の展示のstatementを読んだ後に思ったのが、その頃読んでいた山崎正和の「柔らかな個人主義の台頭」だった。この本は1980年当たりから、60-70年あたりの国内の嗜好の変化と考察をしている。
印象的だったのが、60年代に国を上げて高度経済成長を成し遂げた。もはや国が主導で大きな目標に向かうことはなくなり、個人の趣味が多様化し始めていた。
しかしその一方で不安も生まれ、新興宗教が多数生まれたという。
結局70年代はオイルショック金融危機もあり、停滞する10年になる。それから40年経過した現在は圧倒的に便利になったものの、人間そのものはほとんど変わってはいない。
 
特に今年は年明けから大きな事件が国外でも国内でも起きた。強烈な出来事は有無をも言わさず情報から目を離せなくなる、一方で疲弊する。
たまに目に入る衝突も最初は追っていたりもしたが、やがて右から左に情報が流れていくだけで自身がどう受け止めているのか、に向き合えていなかったからだろうと思う。
一度情報を切断して、何を感じているのか、何を必要としているのかを見つめなおす必要があった。
 
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作品解説の時には会場にいなかったので以下作品について感じたことを書いていく。
 
これまで見てきた大槻さんの作品に感じる変化は、余白の広がりだ。
 
大槻さんの作品といえば女性が出てくる。性別は髪型から判断できるけれども、今回の展示では「女性」につきがちなタグ、例えば「母性」「かわいい」と言葉は浮かんで出来なかった。
(乳白の空は母もテーマであり、母性を感じさせる作品も分かりやすかった)
 
以前質問サイトを通じて投げかけた問には、「性別というよりは人間にないものにも見えるもの」をいうことだった。相手の表情を読み取る時に、目を見るのが日本人というが(※)、最近の大槻さんの書く人の目は平坦になっていたり、目が光っていたりと表情を何とかして読み取ろうとしても、よくわからないものもある。(しかし、比較的読み取れやすいものもあり、それらが先に売れていたのが印象的だった。)今回の展示では一つ一つのポートレートだけ見ていても分からなかったのだが、複数並べられているものを見ていくうちになんとなくこんな状態なのだろうか、と霧が少し晴れつつある。
 
表情を抽象化することで意図するものは分かりにくくなるものの、その分、見る人によって作品にもつ印象は人それぞれになる。判断材料が少ない分、見る人個人の過去の出来事から似たような状態を想起させて重ねさせる、ということを引き出すための装置なのかもしれない。statementで仏像という言葉が例として出てきたが、見る人によってそこに思いを投影できる余白のあるポートレートは現代の仏像ともいえる。
 
ポートレートが映り込みを狙って作られた「家」の作品は、作品を見るためには自分が映り込まざるを得ない。家の前に佇むのはそこに住んでいた人のようだが、その家に対する思いはあまり良いものではなさそうだ。家を蛹に見立てている作品もあるが、守られている存在である家からいつかはそこから出ていかなくてはならない。
 
「ゆめしか」作品については立体作品もあり、今回の展示でも重要な役割を果たしているように思う。
平面作品から想像するに、夢の中で目覚めたものの、近くには何らかの危機が迫っている。今回の展示のタイトルが「わたしを忘れないで」、でそれが「ゆめしか」から発せられているとするならば、
それに対してみたものが「忘れないよ」と答える。(昔オバマ大統領の選挙スローガンYes We can! がYou can do it と対になっていたように。)
「ゆめしか」は自分の中にあるもう一人の自分で一人分のベットにいる。孤独な状態ではあるが、見る人が「忘れないよ」と呼応する限り消えることはない。
 
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これまで何回か展覧会に足を運んでいるものの、大槻さんの作品について不思議と好きか嫌いかという感情は沸いてこない。けれども、行けばそこに何かがあり、この人は次何を描くのだろうか、という興味があったからだ。その変化を同じ時期に生きながら鑑賞できるのは幸運なことである。
 
会場は写真も撮ることが出来るが、結局撮れていないのは会場そのものがこれまでの一区切りの集大成になっていて、自分を差し出すことがこの展覧会の楽しみ方なのだろうと思う。
 
11月29日まで
入場無料
 
 
※日本人は目、米国人は口の形から感情の読み取りをし、それは顔文字の違いにも表れている。とする報告