まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

引き出しにしまうもの

少し前に読んだ金原ひとみの「持たざる者」の中にこんなセリフがでてきた。
人生の中で何か、強烈な感動を一度でも体験した人って、その時の記憶だけで生きていけるんじゃないかって気がするの。
例えばグランドキャニオンとか、マチュピチュとかに行ってすごい景色を見たりとか、そういう瞬間的な感動。そういう一瞬の記憶がそのあとの人生の糧になることってあると思うの。」
 
マチュピチュやグランドキャニオンへ入ったことがないけれども、旅行に訪れた先で瞬間的に覚えた感動はいくつもある。私の場合それは特に旅行に限らず、絵に描かれたものについても同様だった。
最近見たものだと鈴木其一の「風神雷神図襖」に描かれた墨は紙の上に描かれているのに、あたかも水に垂らした墨汁をそのまま閉じ込めたように見えたし、速水御舟の「翠苔緑芝」の紫陽花の花弁はいつまでも揺れ動いているようにみえる。これらの絵を見た時に感じた強い印象は多分強烈な体験、と感じるものはあくまで個人によってかわってくるのだろうし、時によっても変わってくる。ある本を時間をおいて再び読んだ時に、以前読んだ部分と異なる場所が印象に残ったときのように。
 
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食べるために生きるのではなく、生きるために食べるのだ、と頭で考えている私にとって、Foodie(食べるのが好きな人)のことは自分とはまた別の次元に生きているようにおもっていた。とはいえ、最近は何かを食べるときの選択肢を考える手間を省くために調理をしなくてもすぐに手に入るものを選択していた。何かを食べればおなかは膨らむけれども、いつもと違うものを食べたいという欲求が沸き上がっていた。おなかが膨れるものを食べても、おいしいものを食べたい。食欲の満足度が食べられる量から違う尺度に変わりつつあるようだ。
 
最近ある食の化身のアカウントをフォローしたところ、見事なくらいに四六時中食べ物についての話題を話している。当然ながら現実には食べるだけで生きているわけではないのだろうけれども、こういうときにこの食材をこうして食べたい、と感情あらわにつぶやいているのを見かけて見ているこちらも自然と「本当にこの人は食べるのが好きなのだな」と感じる。
 
私の場合は、目で楽しむ何かだったけれども、その人にとっては味と香りなのだろう。違いはあろうが、そこに優劣はない。
 
昔使っていた引き出しには手あたり次第持っておきたいものを突っ込んでは机の中がぐちゃくちゃになって後で整理する羽目になっていた。
嗜好の引き出しは見えない分たくさんのものが入れられる。雑多なものがあればあるほどその引き出しは豊かになる。