まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

街を歩くと、物語が立ち上がる(多和田葉子 新作刊行イベント)

神楽坂で多和田葉子さんの新作「百年の散歩」の刊行記念イベントに参加してきた。
 
以下メモの書き起こし。
 
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ドイツではハンブルクとベルリンに住んできた。
ハンブルグは生活感があるが、ベルリンは常に小さいイベントがあり、劇場のような場所のようだ。
 
●新作「百年の散歩」について
 
今回の作品はベルリン市内の通りを歩いてみて店並びや感じたことをその場で書き出したものがもとになっている。
実際の通りを歩いて書くのだから、取材になるのだけど、ドキュメンタリーではないので、その場でインスピレーションがわいたら物語を取り入れるようにして、
閉鎖的にならないように心掛けた。カメラのように目に見えるものをすべて書き出すことはできない。いつの間にか情報を取捨選択しているし、それがアイデンティティになる。
 
通りによっては近くに休めるところがなく、ベルリンの冬は厳しいので、そういう場所に行くのは長時間外にいても気にならない時期にして、冬は家の近所の通りを選んだ。
3か月に1回のペースで書き進めていったが、常にそこにいるわけではなく、かといってこの小説はベルリンにいないと書けないのでこのペースはぎりぎりだった。
 
どうしても入れたかったけど入れられなかった名前として、ベンヤミンがいる。
彼はパリのブティックが立ち並んできた様子を目にして、街をあてもなく彷徨う「散歩者」という文章を書いた。
ゲーテ通りはもともとたくさんあるので入れられなかった。
(新作を読んでいる途中ではあるけれども、作品全体として書こうとして書ききれなかったベンヤミンの気配がする仕上がりになっているような気がする)
 
●戦争の記憶(ベルリンと東京)
・ベルリンの通りにはすべて名前が付けられているが、ナチスに抵抗した人の名前が大通りにつけられていることが多い。
・道路には「躓きの石」と呼ばれる、亡くなったユダヤ人の名前が刻まれている場所がある。日本では踏みつける行為を侮辱ととらえるが、ドイツにはそのような意味はない。
・どれだけの人が亡くなったかを数で示されても漠然としてしまうが、名前を見るとそれだけでそこに確かにいた人を感じることができる。
・東京の街を歩くと、江戸を感じさせる場所はあるが、戦争があったことを感じさせる場所はあまりない。
 
●首都としてのベルリン
多くの首都は経済的に発展している場所と首都の位置が一致しているが、ベルリンはそうではない。かつて市長が「ベルリンは貧しいがセクシーだ」、といったように、東京に比べると物価や住宅費も安価である。ただし、最近は他国から投機目的で住宅を購入しているしている人もおり、全体的に上昇傾向にある。
 
ベルリンはロシアとフランスにとって重要な場所であり、ロシアという男がベルリンという少女をナチスから救った、という大きな像がある。また、フランスはベルリンの街を作った、という気概がある。
 
ドイツは最近移民の受け入れに積極的な姿勢を示したが、地方とは異なり、元々多くの移民がいるために、それほど見かける人の構成に大きな変化があったようには感じない。ただし、同じ場所に何世代も住んでいるという人はおらず、「常に変化の中心にいる」という感じがする。
 
街を歩いていると、躓きの石以外にも、地面に「引用文」が記されている。引用文に沿って歩くと車にひかれかねないのだが、「引用によって私の時間が切断される」
そういうところも「劇場」な街なのかもしれない。