まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

2017年に読んだ本のこと

 2017年の振り返りと2018年についての展望について書き始めたものの、きりがなくなったため、これらはまた別の記事によるものとしてここでは読んだ中でも特に印象に残った本を紹介する。
 
高坂正尭「外交感覚」
本書は1977-1995年の約20年間を一月ごとに著者が直面した出来事の考察を記している。40年から20年程前の出来事にもかかわらず既視感にとらわれるのは、20年以上も本質的な問題は解決されていない、もしくは火種となり、今もくすぶり続けているからなのだろう。
解説でも書かれているように、著者は預言者ではない。にもかかわらず、今読んでいても古さを感じさせずに私の心に響くのは、人間の性質はすぐに変わらないからだのだろう。過去に起きた出来事も、今年起こった出来事と分けて考えることはできない。技術が進歩したからといって人間がバージョンアップできるわけではないことを痛感させられる。ボリュームはあるのでとっつきにくいと思われがちだが、手始めに巻頭と巻末の解説と3つの考察を読むことをおすすめする。
 

外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり

 
ある時期を境に少なくともこの国においては「民意」は政治家の権力執行の正当性を補う便利な道具として使われるようになったが、果たして国の違いはあるのだろうか。欧米、フィリピン、中国、そして都知事とそれぞれの民意を後ろ盾とした執行を丁寧に論考している。例えば米大統領選では二大政党の支持が保持されたまま草の根運動したトランプ氏が勝利をおさめており、欧州のポピュリズムとは分けて考える必要がある。ドゥテルテ氏は過去と現在の取り込みに成功した多様性を持つ。中国では絶対的な権力というよりも、市民の動向にところどころ気を配って国家の運営が脅かされないよう消火活動を徹底している。
小池都政についての論考は衆院選の前の段階になされたものだが、東京都は最も所得がが高いために政治から距離を置いていても自分で何とかできる故に遊興を提供する場所に甘んじていても問題ないのだろう、とあきらめの書き方をされている。(残念ながら現実になってしまったが、そのつけを払うのは都民である。)

アステイオン 86  【特集】権力としての民意

玄田有史編「人手不足なのになぜ賃金が上昇しないのか」
 
標題の疑問を様々な切り口で説明を試みた本。16章あるものの、いくつかの章ではともに引用している事柄が行動経済学プロスペクト理論 をふまえた「給与の下方硬直性が上方硬直性を導く」と一見矛盾した解釈である。被雇用者は現時点の給与水準から下がることには抵抗するが、上昇しないことにはあまり注意を払わない。一方雇用者は業績不振があっても、一時金で調整はするものの基本給の弾力性は弱い。これらの複数の要因が絡み合って上方の硬直性はもたらされる。また、人手不足と一億総活躍をふまえて、就業人口が増えたものの、就業体系はフルタイムのそれではない故に平均化すると賃金が下がっているように見えているだけ、という説も提示されている。
 

人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか

・国立社会保障人口問題研究所編 「日本の人口動向とこれからの社会;人口潮流が買える日本と世界」
 
本書では単なる人口だけにとどまらず、その前段階の結婚未婚の分析に始まり超高齢化社会への提言が含まれているなど、想像以上に幅広い問題を取り扱う。地方部では人口減少が顕著だと知識としてはわかってはいるものの、国内の人口ピラミッドで比較した都市部と地方部の人口の違いには驚くしかない。出生率を上げるよりも海外からの働き手が日本に定住し、彼らの子供が日本で子供を育てることで人口減少の推移を緩やかにできるという案に対しては、なるほど最もだとは思わされるが乗り越えるべきハードルは高いだろう。

日本の人口動向とこれからの社会: 人口潮流が変える日本と世界

國分功一郎 「中動態の世界」
 
「暇と退屈の倫理学」の後半に、医学に関連した話題が出てきた。物理学においては理論が実験に先駆けるように、原因がわからない症例も思考が突破口になる可能性を秘めていた。 本書は医学書院からでているぶん、そちらの話に近いかと思いきや、中動態という考えの導入部分をにとどまり、何らかの回答を期待していた人にとっては肩透かしを食らうかもしれない。けれども、ONかOFFかのどちらかしか選べない袋小路に陥っているのであれば、中動態という状態に自ら舵を取ることで、依存状態から遠ざけることができる。分野は異なるが土田健次郎「儒教入門」で目標となる状態になるのは難しいけれども追い求め続ける状態こそがよい、という部分を思い出すなどした。
 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

・三品輝起「すべての雑貨」
 
雑貨店を営む作者が雑貨や思い出をまとめたエッセイ。今年京都の北山に本と雑貨の店を開いたsuzunaさんが読んでいたことをきっかけに手に取った。雑貨について大体誰もがいいイメージとして持っているが、その境界はとても曖昧だ。●●系で括り始めれば語ることはできるが、際限なく置きだすとその店はただのガラクタ屋になり、客足は遠のいてゆく。道端の石ころを売り出したら無能の人の世界になってしまう。果たして雑貨店は専門職なのだろうか?売り手は昔の客だった。しかし売り手にならない客は一体何を求めているのだろうか。経済学部出身の店主は冷ややかに雑貨の世界を見る。こんな店と括られることを拒否しながらもがき続ける姿もあり、子供の頃の生々しい思い出も読み応えがある。

すべての雑貨

・ヒューバート・ドレイファス「コンピュータには何ができないか」
作者のドレイファスは今年に亡くなったが、この本は1972年に出版された。当時のAI研究に対する批判が中心であり、そのAIの盛り上がりを踏まえつつ、このままではAIが人間の領域に侵食することはないとしているが、その理由について述べている。人間は有機物であるし、外部刺激に対する人体の反応の変化は分子レベルでシミュレーションできるのあれば、人間の活動を数値化できるという還元主義的な考えがある。人間を数値やプログラムに置き換えることができるのであれば、機械と行っても差し支えないのだろう。しかし、一方でその身体に宿る各個人の性質の違いなども同じように還元されるものかというとそうではない。(行動経済学のような傾向としての学問はあるかもしれないが)。ドレイファスは、身体、状況、意図や欲求、といった伝統的哲学およびAI研究に欠けており、これこそが人間の知性を成立させるための不可欠な要素だと指摘する。 前回の人工知能ブームで明らかになったのは、人工知能について考えることによって、それでは人間は代替されない役割があるのかを考えるきっかけとなったのだが、今年はスマートスピーカも発売され、AIという言葉が紙面をにぎわせる機会も多かったものの、前回ほど哲学の分野から今のAIを考察する本はにぎわっていないようで残念でもある。
「もしもコンピュータ・パラダイムが強くなり、人々が自分たちを、人工知能研究をモデルとしたデジタル装置と考え始めるならば、人間は機械に似てくるだろう。われわれが危ぶまなければならないのは、優れた知能をもつコンピュータの出現ではなく、劣った知能をもつ人間の出現なのである。」(引用)

コンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判

・Viet Thanh Nguyen「シンパサイザー」
昨年紹介した「ポーランドのボクサー」もそうだったが、直接戦争を体験してはいないけれども、それを体験した身近な存在から話を聞くなどして、今ある自分の存在のあり方を考える本が今年もあった。シンパサイザーを書いたのはアメリカの大学に籍を置きながらベトナムを研究するベトナム人というのも興味深い。本の中で生まれはアメリカだが名前が日本由来の名前が付けられている日系人女性が日本について思いをはせることはないのか?と問いただされる部分があるのだが、彼女にとっては想像できるものは名前だけしかなく、愛想笑いでその場をやりぬける、というのが印象的だった。無理もない事だろう。
翻って国内では、どうだろう。東日本大震災という事件を自分の人生の中でどう解釈するべきか、という本はいくつもあるが、半世紀前の出来事を自分ごとのように引き継いで書かれた作品というのはあるのだろうか。

シンパサイザー