まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

茨城県北芸術祭(山側)に行ってきた。

11月20まで開催中の茨城県北芸術祭に1泊2日で山側に行ってきた。
前回は海側に行った。
 
山側も海側同様巡回バスが出ているものの、広範囲に点在しているため、ダイジェストバスツアー(じっくり山コース)を利用した。
 
出発は9時30頃で、帰りは19時の予定だったが、途中予定よりも遅れがあったものの帰りがスムーズだったため、20分ほど早く駅に到着した。
 
メリット
見るべきところが点在しているので、効率的に回るのには適している。
添乗員さんがあらかじめ作品がどこにあるのか見落とさない様に場所を教えてくれる。
 
デメリット
あらかじめ予定時刻が組まれているため、各場所で見学時間が決まっているので、場所によっては十分に見られない。
旧家和楽青少年の家は並ばないとみられない展示があるので注意。
 
その他
海コースと山コースはそれぞれ人気が出てきており、満席が続いているという。(ので当日申し込みはせずに事前に予約したほうが吉)
10月中旬から後半になると袋田の滝など芸術祭とは別に紅葉で観光にくる人も多く予想されるため、見学と混雑が予想される。(私が訪れた時はまだ余裕があった)
山コース、海コースはともに同じ弁当になっている(飲み物は各自で用意)
 
 
ダイジェストツアーの山コースには含まれていなかった常陸太田駅周辺の展示は最寄り駅のレンタサイクルで回った。(4時間まで300円)およそ4時間かけて20㎞ほど回ったが(松平町休耕地、管理センター、パルティホール、鯨ヶ丘地区)、休耕地や管理センターまでは起伏がある。また、自転車は電動つきではあるが、1時間ほどしか持たないので、利用する場合は比較的近い鯨ヶ丘地区とパルティホールまでとした方がよいと思う。
 
 
以下印象残った展示・場所を紹介
 
 
Black field(Zadoc Ben-David) 旧家和青少年の家
白い砂の上に、おびただしい数の針金で作られた草木が植えられている。正面は黒だが、裏側は鮮やかな色が描かれている。
見る場所によって刻々と移り変わっていく景色は壮大で、草と同じくらいの大きさになってこの原っぱに紛れてしまいたい気持ちにもなった。
 
旧上岡小学校
NHKの朝ドラや Girls und Panzer(映画)などのロケ地として利用されている旧小学校。以前箱根の旅館に宿泊した時に、この小学校と同じような作りをしていたことがあってとても懐かしく、また木に年月を感じさせる重みがあると同時に温かみのある場所だった。(校庭が駐車場となっていて、建物全体を写真に収められなかったのは少し残念だった。)

https://www.instagram.com/p/BLVOJqhAFJD/

#garupan

(映画を見た人ならわかるあの人の席)

 
道の駅 常陸大宮 かわプラザ
道の駅にも作品があったのだがなんといっても、丁度太陽が沈むころに到着して、真っ赤に焼けた太陽光が雲を茜色に照らしていた。刻々と変わりつつある空の色に思わず見とれてこの場所で多くの写真を撮った。前にも書いたけれども一過性のアートよりもやはりその場所にある自然が作り出す風景には畏敬の念を抱かざるを得ない。と感じさせられた時間だった。
 

https://www.instagram.com/p/BLVc7jsgQPx/

Instagram

(日が落ちるまで1分おきくらい写真を撮っていたような気がする)

 
鯨ヶ丘地域
原高史 sign of memory
鯨ヶ丘の名はその地域が鯨のような形をしているところから名付けられたという。また、丘という言葉がついているように、駅から歩くと小高い丘の所にあるレトロな商店街になっている。
通りに面する建物の窓にはピンク色を背景にして建物に住む人たちにインタビューして得られた生の声が印刷している。土地の歴史から、建物の歴史まで。今住んでいる場所をどのように感じているか。おそらくインタビューを映像にとってそれをそのまま見せるという形式もあるだろうが、それよりも、窓に印刷した文字を読ませるという手法は意外と見る人に文章を読ませる時間を与えていて、映像のように窮屈ではない。また、建物ごとに書かれる言葉は変わっているので、道路に置き忘れたような立て札よりも興味を持って見ることが出来る。
 

https://www.instagram.com/p/BLXkW8pAePr/

鯨ヶ丘 #kenpoku

旧上岡小学校と同じくロケ地として利用できそうな雰囲気のある場所だった。
 
 
様々な人の属性の人たちのある日の一日のタイムラインを色分けして展示する。311のものだったり、新しい命が生まれた時だったり、まもなく死に向かう人であったり。どこかで必ず経験しているだろう一日のタイムラインを眺めると、人はそれほどかけ離れた生活をしているのではないな、と思うのだった。

https://www.instagram.com/p/BLX0-I_gqiD/

生と死のtimeline #kenpoku

左が死に近い方、右が出産した赤ちゃんのタイムライン。
色は違えど生活スタイルは似ている。
 
***
山と海両方見た感想としては、どちらにも良い作品があったのでできれば両方回ってほしい、ということ。
そして芸術祭だから一応の主役はそこに展示されている作品だけれども、そこにある自然には勝てないなと改めて感じる。
1日ですべて回りきるのは難しく、レンタカーでも2,3日はあったほうが良いと思う。車で回らない人は巡回バスやダイジェストツアーをうまく利用すればよいだろう。
 
まだ期間はひと月ほど残っているので週末の小旅行におすすめです。

茨城県北芸術祭(海側)に行ってきた。

少し時間が経過してしまったが、北茨城で開催されている茨城県北芸術祭(以下通称kenpokuと表記)に行ってきた。
kenpokuは大きく分けて山と海の2方面での展示がされている。
今回は海側の展示を回った。海側の展示は日立が中心で最も北が津港町になるが、上野から特急でおおよそ2時間ほどで着く。
 
基本的に広範囲に渡って展示がされているので、車での移動が望ましいのだが、土日祝日はエリアごとに循環バスが出ているし、
調べればバスを利用しても行くことができる。
 
以下印象に残った展示について紹介
 
須田悦弘六角堂) 
六角堂は311の時に流されたものの、翌年に建て直されたという。現地は晴れていたが、言われてみると確かに周囲の波は予想していたよりも荒々しい。剥き出しの岩礁が沖からの波をある程度抑えているのだなとわかる。
パスポートを持っていると場合250円(持っていない場合は300円)であるが、訪れる価値はある場所。
展示は須田さんの作品を既に知っている人ならおなじみの彫刻だが、建て直されてまだそれほど時間が経過していないにもかかわらず、がらんとした空間の中に雑草が生えている。そこに生えていることはある程度の時間が経過していることを想像させる。
海の間近に建てられた六角堂が流されるまえにどの程度朽ちていたのかはわからないが、あの場所に庵を造った岡倉天心の決断にも恐れ入る
 
AKI INOMATA(うのしまヴィラ
うのしまヴィラは循環バスは出ていないが、市内バスを利用してちかくまでいくことができる。日立駅  中央口 2番のりば 75/77番バス 祝崎下車
 
ヤドカリの殻に9種類の都市が載っている。もちろん都市の全てではなく、パッと見たときにその場所だとわかるような象徴的な建物を選んで載せているのだろう。3Dプリンタで作られたらしいヤドは都市の縮図とも言えるかもしれない。作られたヤドは実際にヤドカリのヤドとなっており、私が訪れた時は東京のヤドにヤドカリがいた。
透明な素材で作られているため、ヤドカリの守らなければならない場所は外からも見ることができるのだが、ヤドカリがこの透明なヤドを選んでいるということは、ヤドカリはヒトと同じく可視光が見えるわけでもなく、また、魚もそうなのだろう。身を隠せる一定の強度と大きさがあればヤドとして利用できるのだろう。ちなみに、ヤドカリはヤドを争うことがあるらしいが、ヤドカリにとってどの都市が最も強い都市なのだろう(おそらく全体のボリュームだと思うが)など興味は尽きない
 
※バス停と時刻表の調べ方 目的地の近くのバス停を調べる→ 近くに大通りがないか調べる。googlemapではバス停の名前までは分からないのでNAVITIMEの地図を使う。
該当のバス停が止まるバスや時刻表もNAVITIMEで調べられる。祝崎の場合は1時間に一本だった。帰りの日立駅行きも同じく1時間に1本だが、行きと帰りの時間は20分ほどずれているので、1時間20分ほどの余裕がある。祝崎から うのしまヴィラまで徒歩で10分以内で、展示の他に昼食を食べられる場所があるので、バスを利用していく場合は昼食時に合わせていくのが良いと思う。
 
芸術祭と名打っているため、表向きの目的としては各所に点在しているアートを見ることだけれども、期限が限られたアートをめぐるよりも、その場所でしか見られないものを見るという姿勢でもよいと考えている。以下そんなことを感じた場所を紹介。
 
●高戸海岸 大浜
 
ここの浜は夏にビーチバレー大会が開かれるほど賑わいがあるのだという。遠浅で静かな海、そして何より砂浜が白くきれいだった
海にはサーフィンをする人もちらほらいて(鎌倉のように混み合っていないのがまた良い)いつまでも眺められる風景だった。
 
ここには空の破片が展示されている。大風が吹いたときに空のかけらが壊れてその一部がこの砂浜に落ちてきたというストーリー。
訪れた時は夕方で昼間の晴天から曇ってきつつあった。21世紀美術館のタレルの部屋のように、天候によって印象が違って見られる作品だと思う。
 
ちなみに、この近くに小浜もあるが、こちらにも作品が展示されている。こちらの渚は美しい場所として取り上げられているという。
こちらはなかなか波が激しく、また渚の両側から波がぶつかり合う瞬間がある。なかなか見られない光景なので、面白い作りだなという印象を受ける。
 
今回訪れた時は夜の天気は曇りか雨だったが、晴れていれば天の川も見られるようなので次回晴れた夜に訪れてみたい。
 
●日鉱記念館  中央口1番乗り場60番 バス 日鉱記念館前
 
鉱山としての歴史があるJXグループの記念館。記帳が必要だが無料でみられる。
鉱物の採掘の歴史的資料を見ることが出来る。技術が進歩しても基本的な手法は変わっておらず、エネルギーを採掘するために多大なエネルギーが必要になることを改めて感じる。
採掘に使われた機材や当時採掘場近くで生活していた人の風土も紹介されている。
日鉱記念館の先には御岩神社もあり、休日は循環バスが通っている。
 
訪れたのは初日と二日目だったのでまだこれから課題が出ると思われるが、改善したほうが良いと思われること。
 
・バスの連携
バスは交通事情によって多少のずれが生じることがあるが、利用したバスの目的地の到着が遅れたため、滞在時間を少し伸ばした。
その結果次の目的地に行くバスに乗り換えることができなくなってしまった。車で回らない人にとって移動手段は限られているため(レンタサイクルはなかった)
効率よく回るには移動バスの連携が重要だと思われるので、滞在時間よりも移動場所への連携に重きを置いてほしい。
 
・公共移動手段の記載
広範囲にわたって訪れるポイントが散らばっているので、最も効率の良い回り方は車を利用することだと思われるが、現地以外の方面から見学しに来る人にとっては循環バスや市内バスを利用する手段がある。けれども、上にあげたうのしまヴィラや日鉱記念館の行き方はガイドブックには循環バスのみの手段しか書かれていない。芸術祭に訪れる人の移動手段の属性の比率(場所でいうなら県内、県外、移動手段なら自家用車、レンタカー、循環バスなど)がどの程度なのかは分からないが現代アートというくくりでいうならば展覧会に行く機会が多いが車を運転しない層も一定数いるのではないかと思っている。公式サイトは定期的に更新されているのでこれらの情報を記載してもよいと思う。
 
 今回は海側を中心に回ってけれども、次回は山側を中心に回ってみたいと思う。
 

The shape of voice

聲(コエ)の形をみた。
 
※内容を含みます。
 
最初予告を見た時にはよくあるパターンの恋愛話だろうと思い、あまり見るつもりはなかった。ただ、映画をたくさん見ている方が褒めていたので見ることにした。
 
予告編は聾唖の女性への恋物語だったけれども、見終わった後は障碍者との恋愛物語、というよりも主人公:石田の友情、青春物語だったと感じている。ヒロインの西宮との関係が全ての始まりではあった。、小学生の時の2人の関係 いじめる側、いじめられる側の関係が西宮硝子の転校という形で終わりを迎えた後、いじめの張本人である石田は教室から浮く存在になる。
中学になっても、昔の友人が石田をいじめで転校させたことがあると彼の人となりを言いふらしたことで、彼の孤立した状態が続く。
 
高校でようやくできた友人:永束との間も、最初はギクシャクして友人の在り方について堅苦しい質問を投げかけるほどだった。
石田がいるクラスの同級生や教師の顔には×印がつけられている。彼はいつの間にか周囲と視線を合わせることをしていなかった。存在は認識しているが、名前までは覚えてはいない。永束ときちんと向き合った時、×印が地面に落ちるが、それは彼自身がこれまで見ようとしなかったものを見られるようになったシーンで象徴的でもある。
 
硝子の妹:結紘は姉を守るために、最初は石田を姉に接触させまいとするが、石田が本心から姉と関係を修復したい思いを受け取ると、石田に協力的になるとともに、石田によい印象を持っていない母親と修復中の硝子とをつなぎとめる役割を果たしている。一方で祖母に見透かされるように、姉のことばかり気にかけて自身の勉学がおろそかになっていたが、、自身が頼れる存在として石田が描かれ、ここも一つの友情として見て取れる。
 
 
西宮への友情を起点として、離れ離れになっていた小学生時代の友人と再会を果たす。過去の友情は修復できたかに見えたが、過去の事実、「西宮硝子をいじめて転校させた張本人は石田将也である」によってバラバラにされる。
西宮というハンディキャップを持った人に対して石田は積極的にいじめていたことは確かだが、彼女の扱い(筆談というコミュニケーションの取りずらさに始まる)に困り、石田のいじめに積極的に加担しないまでも、少し離れたところでその姿を見ていた状態にはいじめを放置していたという理由で消極的に加担していたのでは、というセンシティブな問いかけが石田によってなされる。
悪者の範囲はどこからどこまでなのか。裁かれるべき悪人はいつまでも悪人なのか?には少し大人になった友人が成長し、誰にでも過ちはある、と赦している。
 
石田は西宮をいじめた時に壊した補聴器代を稼いだ後に自ら命を絶とうとした。結局それは失敗に終わる。自分自身が他人にした目に見える形の補償というけじめだったのだろう。西宮もまた、自分が友人だと思っていた人たちが過去の自分のせいで不幸になっていることに胸を痛め、自殺を図る。しかし、石田により住んでのところで救われ、代わりに石田が大けがを負う。
石田の未遂は母親に、西宮の未遂は石田を看病していた小学生の頃の同級生:植野にそれぞれ死による責任放棄の身勝手さを責められる。西宮の場合は自身の身勝手さに無関係の石田を巻き込んでしまった事への非難がなされる。
 
植野の性格は回り道をせず、はっきりとした物言いをする。石田への好意ははっきりしている。一方で西宮の物事を円滑に進めようとするために自分が悪者になって謝罪する行為(それは小学校から続く)への嫌悪感を持っており、西宮にぶつける。
たとえ障碍者だとしても、その性格が障碍者による生き抜くための方法のひとつだとしても彼女は差別はしない物言いをする。
どちらかというと、暗黙の了解で配慮という名の遠慮がされるのが一般的だろうと勝手に考えていたものの、実はその配慮が相手が変わらないことの理由にしていたのかもしれない。
 
退院して文化祭が開催されている学校に来た石田は同級生の視線を見ることが出来なかったが彼の過去を許した彼の友人が彼を導き、彼の心の目が解き放たれ、これまで見ていなかった周囲に何が聞こえているのかを意識する。彼は周りを気にせずに大人げなく泣いてしまう。西宮の聾唖ばかりに目が行ってしまうが、彼自身もまた長く孤立した状態で自身も周囲の声を無意識のうちに聞かないようにしていたという点で、彼もまた聾唖だった。
 
タイトルの聲の形が何故旧字体なのか。聲の語源は「石の楽器を打ち鳴らし、耳に聞こえるその鳴る音」「おと、ひびき」の意味だという。声が聞こえる耳がある。その耳は聞こうとしていただろうか。その目は見ようとしていただろうか。石田があってこその映画だった。
 
 

原美術館「快楽の館」と東京都写真美術館「ロスト・ヒューマン」

原美術館で開催中の快楽の館と東京都写真美術館で開催中のロスト・ヒューマン展を見てきた。
どちらも写真家による展示で、片方はヌード、もう片方は33人の専門家が見た文明の廃墟、と両極端の展示でありながらも近いものを感じたので各展示で感じたことを書いてみる。
 
***
快楽の館は原美術館の様々な場所で篠山紀信氏が各部屋からインスピレーションを得て撮った写真を展示されている。
説明書きはないが、それぞれの写真が取られた場所のすぐ近くにあるため、この場所でとったのか、というのがわかる。
既にそこにいたモデルの存在はないものの、写真を通じてその場所をどういう場所としてシャッターを押したのかを想像することは出来る。
 
例えば自分がよく知っている場所であっても、テレビに映された状態で見るのとではまた印象が違うように、その場その場で写真に収められた一時の虚構と今の空っぽの空間との答え合わせをしていくのが面白い。この展覧会は巡回はないのだが、写真が撮られた空間を知らずにただ写真だけ展示されたのでは、ただの裸を見せているだけに過ぎなくなってしまう。年齢制限がない(保護者同伴は必要だが)と主催者が判断したのも、ただ写真だけを目的に見てほしくないからだろうと思っている。
 
大人数で映った作品もいくつかあり、瞬間ギョッとしてしまうのだが、普段見慣れないものに出くわして間隔が麻痺してくると写真に写っているのはヒトのはずなのにヒトでないように見えてくることがある。
普段見慣れている自分の肌と比べてこんなに色が鮮やかなものなのか(人形のように見えてくる)であったり、逆に夜に屋外で撮った写真では体全体が照明を反射して身体の内部から発光しているように見える。自分が過去に見た絵でいうとピカソ藤田嗣治の作品を思い出すのだった。
 
午前中に訪れたのだけれども、夕方や夜になるとまた違った表情を見せてくれるだろうから次は時間を変えて行く予定だ。
 
 
***
 
杉本博司氏のロスト・ヒューマンは一時期繁栄した人類が様々な困難により衰退し、廃墟した文明を紹介している。
3年ぶりにリニューアルしたにもかかわらず、廃墟をテーマにした展示でスタートすることに主催者の意気込みを感じる。
空間は錆びついたトタンで区切られて、33人の専門家による嘆きのメッセージは「今日世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」で始まる。展示されている作品は杉本氏が収集した歴史的遺物と撮影した作品がちりばめられている。
人間は不思議なもので、いくつかの断片的な情報を提示すると、そこからストーリーを作るように解釈をすることが出来る生き物だ。だから、専門家が書き残した文章と展示物を眺めていると本当に起こったかのような気分にさせられる。特に展示物が過去に起こった出来事の作品(例えばWW2のものであったり)である分、より一層現実味が増す。
けれども各専門家の嘆きの文を読んでみると(展示物のものは読みにくいものもあるが、入場時に配布されるパンフレットにタイプされているものを読めばカバーできる)、色々とツッコミを入れたくなる部分があることに気づく。そこまで悲観的に考えなくてもいいだろう、と。
実際この展示はなにも見た人を絶望させるためのものではなく、「文明が終焉しないように考察をするためのインスタレーション」だと書いてある。過去は変えられない、けれども未来は変えられる。それに向き合うための最悪な状況から脱するためには陳腐な言葉ではあるが自ら考えることの大切さが必要なのだろう。
  
***
 
快楽の館では原美術館という建物に一時的なヌードモデルを配することで快楽の館という虚構を演出した。
いっぽうのロストヒューマンでは歴史的遺物に文明の終焉を配置して人類の終焉という虚構を演出した。
方や空間が人の姿に規定され、もう片方では物が空間を規定する。限られた展示期間という虚構であっても、いざその中に身を埋めてみると想像できるものがある。
ということでどちらの展示もおすすめです。
 
 

like a ちゃぶ台

この頃世間をにぎわすニュースといってもその多くを新聞に頼っているのだけれども、あらためて感じているのは、ニュースの拡散の速さと忘れ去られることの速さである。
目にする情報量が増えればその分、たとえ最初に目にした時からあまり時間がたっていなくとも、多くの情報を目にしていればその分忘れ去られてしまう。
また、所謂テレビのコメンテーターのようにそれとなくいいことを言う人の意見は黙っていても目に入ってくるので、自分の考えが生まれるよりも、それとなく納得してしまう。
そして忘れてしまう。新しい出来事を知っていてもそこに自分の考えはない。情報を右から左に流しているだけ。そんなこともあって、以前フォローするアカウントを大幅に整理した。
 
 
***
アメリカの大統領選が本格化しているが、Trump氏の躍進について最初の頃はすぐに淘汰されるだろうと見ていたメディアだったたが、さすがに取り上げないわけにはいかなくなった。
最初はほとんど無視を決め込んでいたが、最近では彼の意見にも考慮するところはある、と姿勢を変えてきている。巧みな話術にはまっているのか、それともいわゆるエリート側に対するカウンターとして彼を支持しているのか、どちらもあるのだろうけれども、一過性の出来事ではないゆえに、たとえ本命候補が大統領になったとしても、不満を持つ層は一定数いるとの見方が出来る。
 
他の国で起こっているから冷静になって見えているだけで果たして自分の国に問題が起きてからどうしてこうなったのか、と言わざるを得ない出来事もあるので他国のことを一方的におかしいというのも変な話である。
 
ちなみに、クリントンが退任するときにブレアにしたアドバイスに、自分の次がブッシュ(子)になろうが、ゴアになろうが、どちらかに肩入れするような対応はとらないように、というのがあった。
こちらには選択権はないのだから、どうしようもない。どちらかというと楽観的にとらえてしまいがちなのは、最近見たズートピアやもうじき公開されるSnowdenのように、いくらアメリカが孤立主義だからといっても内部から反省や問題を提起する土壌があるからだ。一時的に片方に寄ったとしても、必ず揺れ戻しがある、長期的に見ると安定しているように見える。なんだかんだ言っても。
 
 
***
 
それよりも気になっているのが自分が住んでいる国のほうで、問題が起きて、しきりに責任問題を追及するものの、たとえそれが辞任という形をとったとしても、それで問題が解決したことにはならないのだが、白紙という形で仕切り直したほうが良いと考えが多いようだ。(これは追究する側の問題でもある) これが続くと目の前の問題だけにとらわれて長期的な問題を解決することが出来なくなる。
どうやらこれは世界中で起こっている現象らしい。政治学者の細谷雄一先生のブログより。
 
これは、すべての先進民主主義諸国で見られる現象で、高学歴、高所得のエリートが既得権益をある意味で占有できた時代が終わることを意味します。これからは、低学歴、低所得、そして失業中の不幸と不満に直面する多くの人々が、そのような既得権益を破壊して、感情を発露するようになるのでしょう。そしてこれまでの制度や慣習がそれによって崩壊されて、先進民主主義諸国の経済状況も悪化して、国際秩序も不安定化する時代を、ある程度覚悟しないといけません。
 
大きなことは目立つしなかなか進まない。然し目立たない地道なものこそ後になって効いてくるのだろうと思う。そういうものを大事にしたい。

like a ちゃぶ台

この頃世間をにぎわすニュースといってもその多くを新聞に頼っているのだけれども、あらためて感じているのは、ニュースの拡散の速さと忘れ去られることの速さである。
目にする情報量が増えればその分、たとえ最初に目にした時からあまり時間がたっていなくとも、多くの情報を目にしていればその分忘れ去られてしまう。
また、所謂テレビのコメンテーターのようにそれとなくいいことを言う人の意見は黙っていても目に入ってくるので、自分の考えが生まれるよりも、それとなく納得してしまう。
そして忘れてしまう。新しい出来事を知っていてもそこに自分の考えはない。情報を右から左に流しているだけ。そんなこともあって、以前フォローするアカウントを大幅に整理した。
 
 
***
アメリカの大統領選が本格化しているが、Trump氏の躍進について最初の頃はすぐに淘汰されるだろうと見ていたメディアだったたが、さすがに取り上げないわけにはいかなくなった。
最初はほとんど無視を決め込んでいたが、最近では彼の意見にも考慮するところはある、と姿勢を変えてきている。巧みな話術にはまっているのか、それともいわゆるエリート側に対するカウンターとして彼を支持しているのか、どちらもあるのだろうけれども、一過性の出来事ではないゆえに、たとえ本命候補が大統領になったとしても、不満を持つ層は一定数いるとの見方が出来る。
 
他の国で起こっているから冷静になって見えているだけで果たして自分の国に問題が起きてからどうしてこうなったのか、と言わざるを得ない出来事もあるので他国のことを一方的におかしいというのも変な話である。
 
ちなみに、クリントンが退任するときにブレアにしたアドバイスに、自分の次がブッシュ(子)になろうが、ゴアになろうが、どちらかに肩入れするような対応はとらないように、というのがあった。
こちらには選択権はないのだから、どうしようもない。どちらかというと楽観的にとらえてしまいがちなのは、最近見たズートピアやもうじき公開されるSnowdenのように、いくらアメリカが孤立主義だからといっても内部から反省や問題を提起する土壌があるからだ。一時的に片方に寄ったとしても、必ず揺れ戻しがある、長期的に見ると安定しているように見える。なんだかんだ言っても。
 
 
***
 
それよりも気になっているのが自分が住んでいる国のほうで、問題が起きて、しきりに責任問題を追及するものの、たとえそれが辞任という形をとったとしても、それで問題が解決したことにはならないのだが、白紙という形で仕切り直したほうが良いと考えが多いようだ。(これは追究する側の問題でもある) これが続くと目の前の問題だけにとらわれて長期的な問題を解決することが出来なくなる。
どうやらこれは世界中で起こっている現象らしい。政治学者の細谷雄一先生のブログより。
 
これは、すべての先進民主主義諸国で見られる現象で、高学歴、高所得のエリートが既得権益をある意味で占有できた時代が終わることを意味します。これからは、低学歴、低所得、そして失業中の不幸と不満に直面する多くの人々が、そのような既得権益を破壊して、感情を発露するようになるのでしょう。そしてこれまでの制度や慣習がそれによって崩壊されて、先進民主主義諸国の経済状況も悪化して、国際秩序も不安定化する時代を、ある程度覚悟しないといけません。
 
大きなことは目立つしなかなか進まない。然し目立たない地道なものこそ後になって効いてくるのだろうと思う。そういうものを大事にしたい。

walk in the line

最近観た映画と、そこからさらに気になってみた映画に偶然にも共通していたのが正義の在り方だった。
 
BvSは神のごとく完璧な力を持つsupermanとその強さにおびえる人間のbatmanと科学者はsupermanという外から来た強者よりも、人間が造ったものでこの世界を守ることを選ぼうとした。(batman911テロ後のアメリカのように描かれていたのは興味深かった)
Watchmenではより少しの犠牲があったとしても、ヒーローが濡れ衣を着せられても、世界が平和になるためにヒーロがいるという姿が描かれていた。
Sicario(邦題はボーダーライン)では法の下で裁きを受けるはずの麻薬カルテル組織を壊滅させるために、対立する組織の長を利用して秩序を取り戻す話だった。
Prisonersでは自分の子供が誘拐され、警察を信頼していない男が、実際の誘拐犯とは異なる人物を違法に拷問するシーンがあった。
Spotlightでは教会の悪事を暴く、一方的な話ではあったものの、過去に告発があったにもかかわらず、見て見ぬふりをしていた過去があったことが描かれていた。
 
言葉の上での対義語は善と悪ははっきりしているものの、現実はそれほどやわじゃない。一つの行為そのものを悪と言えても、視点を変えると、疑問が頭の中にもたげてくる。cross the  lineは一線を越えるとも訳されるけれども、これらの映画を見ながら一本の不安定な線を歩くような感覚だった。
 
Sicarioを見終えた後には独裁政権が崩壊して民主化に向かおうとしていたものの、長らく内戦が絶えない中東のある国を思い出さずにはいられなかった。Prisonersを見た時は、自分の子供を一刻でも早く見つける手がかりを得たい男の行動を非難しながらも彼をとめなかった彼の妻と友人の姿を「なぜとめなかったのか」という気持ちは沸かなかった。
 
アメコミ作品については良く知らなかったものの、今回のBvSをきっかけに映画の批評を聞いたり、元になった作品を見たりすると、必ずしも勧善懲悪ではなく、矛盾を抱えながらも、全体的な秩序を得るためのヒーローがおり、それは世界情勢が不安定な時期で起こっていたことも興味深い。(BvSの元になったDark kinght returnsやWatchmenは冷戦時が舞台)
もうすぐ公開されるcivil warもまた別の視点でこれについて考えるきっかけとなるだろうから楽しみでもある。
 
翻って最近の国内の出来事を遠目で見ている分には相変わらずの一方方向で善と悪がはっきりしているようにみえる。ますます近寄らないようにしていきたいところである。