まいにち。まいにち。

「誰からも頼まれもしない」ことを勝手にしよう(森博嗣)

金沢の喫茶店で魔女に会う

金沢にはもう2度ほど訪れている。きっかけは北陸新幹線の開業だった。けれども、その後、新幹線の盛況により航空機の乗客率が下がっており、割安になっているというニュースを目にして、夏休みに金沢を訪れてからその魅力にとりつかれて、2014年の夏休みに金沢を訪れた。
 
2015年には年末に金沢を訪れたあとに、加賀温泉駅へ行き、山代温泉の古湯の静かで熱い湯の虜になって、2016年にも同時コースを行く予定だった。
 
そんな時に午前四時さんのつぶやきでローレンスという喫茶店を知った。

 

ローレンスという店の名は作家のD.H.ロレンスから取ってるそうだ。どうやら店主の女性がおしゃべりで、その風貌から魔女と呼ばれているらしい。喫茶店も片町という金沢の繁華街(路面店などがある)の近くだという。事前情報が多すぎると楽しみがなくなるので、あまり散策するのはやめにした。
 
どうやら開店は二時くらいだが、私が行った時はまだ空いていなかった。そこで、また周囲を散策した夕方に訪れると、今度は満席で入れなかった。雪は降っていなかったものの、12月の金沢の外は寒いので近くのおでん屋で暖をとった後に、閉店の三十分前にもう一度訪れると、店主が覚えていてくれて中に入ることができた。

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すでに客は私以外に2組おり、雑談に興じていた。喫茶室は仕切りがあるものの、それは隔離されたものではないので、話し声はすべて筒抜けで聞こえてくる。
 
その時の話題は好きな食べ物で、店主はクワイや百合根が好みのようだ。(すでに色々なところで語られているように、こちらから聞かなくてもいくらでも話してくれる)
また、もともと生まれは金沢ではなかったが、大学は金沢美大を卒業しているようで、私は以前読んだ東村アキコの自伝的作品「かくかく、しかじか」を思い出した。東村さんは店主の後輩にあたり、大学時代は課題よりも遊ぶことに夢中ではちゃめちゃな生活をしていたシーンがあった。おしゃべりな魔女は大学時代からこんな感じだったのだろうか。
 
私の机にはメニューが置かれていたが、「コーヒーでいいかしら?」と声がする。
選択の余地はなかった。

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断る理由もなかった。
 
隣の客との話題は好きな画家の話になり、Juan Sánchez CotánやGiuseppe Arcimboldo(果実で人物画)、クラナッハ藤田嗣治の名前が出たが、私がかろうじて知っているのは藤田くらいだった。
 
やがて閉店が近づき、私の隣にいた客が別れを告げ、がらんとした喫茶店に店主と私が残された。
ようやくそこでマッチ箱の質問をした。
 
店主は快く答えてくれた。

 

マッチ箱の作者について尋ねると、店主は少しの間記憶を巡り、作者は男性で、店主の大学時代の先輩で最初から最後まで一貫して優秀な成績を修め、博報堂に内定していた。けれども直前になって家業の大黒柱が亡くなり、米屋を継ぐことになったという。

この作品はおそらくその人の最初で最後の商業作品だったようで、店主ももう片手で数えるくらいしか持っていないという。四時さんはこのマッチ箱は掃除している時に見つかったもののようだけども、忘れられていたようだ。
(お店を出た後思わずTwitterにこの話を書いてしまおうかと思ったものの、個人的な思い出のいいとこ取りをしてしまうのも悪いいので、四時さんが直接聞くまで封印することにした)
 
その後、話題は藤田嗣治に移り、府中市美術館と川村美術館でみた彼の作風の変化について話をした。店主はちょうど藤田の研究をしている林洋子さんの本を持っているのを見せてくれた。(この後実家に戻ると母親がおない本を持っており、驚く)
 
次に、店内の空間に話題は移る。せっかくの機会なのでがらんとした店内を許可を得て撮影させてもらった。元々は居住空間だったものを今の店主が引き継いでドライフラワーがあふれる店内になったという。
 
ある部屋に大根が一本置かれていたことに驚き、誰かの忘れ物なのかを尋ねたが、これも店主の意向で朽ちていく様子を観察するために置いてある。
 

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※ネタではない。
 
店主は今年で66歳と私の倍ちかくの時間を生きているが、目はキラキラしていて、老いを感じさせなかった。それはおそらく彼女自身が好奇心を持ち続けながらこの喫茶店を守っているからなのだろう。新聞も読んでいるようだった。

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随分と長居をしてしまったことを詫びて、帰ろうとしたところ下の階段まで送ってくれた。門を閉める少し手前で思わず握手を求めたのは自然な成り行きだった。
 
一度訪れた場所ですぐに好きになる空間はそれほど多くはないが、この喫茶店は多くの人に愛されているようだ。毎日訪れることはできないが、また金沢にきた時にはここにくるだろう。
 
昨年で50周年だったようだ。
 

Do not go gentle into that good night

年があけてしまったが、2016年を振り返って、思うころを考えてみたい。
 
●想定外(?)の状況
英国がEUから離脱したり、アメリカの大統領にトランプ氏が選ばれた。また、東京都知事が変わり、オリンピックや豊洲市場などの都内の大きなイベントが混沌とした。これらはどれも予想していなかった。結果が明らかになった今では何を理由にしても間違いはないように思えてしまう。けれども、この状況はいかに自分が見えている世界が、j実はほんの一部分であることを意味する。幸いにして、英国は次期首相がすんなりと決まったり、アメリカの行方は未知数な部分も多いが、その分これまでよりも一層メディアによる監視が高まるため、大きな間違いは起きにくいだろうと期待したい。
けれども都知事については自分が選んだ候補者が当選したものの、ここまで自分本位な仕事ぶりに徹底するとは思わなかったし、一都民としてこれまでの職務には失望している。
数年前から当たり前のように使われる言葉として政治家が使うのが「民意」と「ファースト」であるが、これらの言葉は自分自身の仕事ぶりを肯定するための文句として用いられているので、自分の国の文化をクールと言ってしまうくらいうぬぼれた言葉だと思っている。今思い返せば、任期中に重要な仕事になるのはすでに〆切が決まっているオリンピックや行先が決まっている豊洲市場など、バトンを次につなぐタイプの候補者であったかもしれない。昨年読んだ回顧録(ガイトナー、ポールソン、そして緒方貞子)には自らの部下に不信感を持ちながら、危機に対応したものはいなかったし、世論やメディアからの追求(道徳に反する救済)があったとしても、実務者を信頼したうえで任務を全うする上司の存在は大きかったが、こうも違うものなのだろうか。
 
●専門家の死
2015年に引き続き、正当なプロセスを経て決まってきたものが政治の具にされ、覆水が盆に返ってしまった状況になった。
強健な体制に反発する姿は聞こえが良いし、例えば一昨年の安保論争が具体的な内容が追及されぬまま、盛り上がった。その純粋な訴えは見るものをひきつける。だが、一方で、体制が変わったとしても、誰かが火中の栗を拾わなければならない。仮にゼロに戻したのであればまた新たに積み上げなければならない。その際に、これまで積み上げたプロセスに費やした人や金をこのままゴミ箱に突っ込んでもよいのか、という想像力と、新たに栗を拾い上げることになる無名な実務者の仕事ぶりに敬意と信頼を置かなければ、遅かれ早かれ誰もが責任を恐れて逃げ出すだろう。粗さがしはするが、手を動かす人はいなくなった結果、存続できなくなる企業も出てくるかもしれない。
 
長時間労働と生産性
某広告代理店への強制捜査書類送検は見せしめのように行われているが、長時間労働がどのような理由で行われるようになったのかに踏み込まなければ、誰かが長時間の労働をしなければならないだろう。効率性の問題であれば、それを上げられるように、新しい技術を導入しなければならないだろうし、煩雑な事務仕事で本来の仕事の進捗に影響を与えているならば、全体を把握したうえで過不足ない手続きに変える必要があるだろう。国が営利企業の在り方にできる口出しは限られているだろうし、新しく作った規制で新たに必要な手続きが増えた結果、企業の生産性を下げることになっては本末転倒である。
そのため、各企業が横並びで対策をとるよりも、その会社の風土に合ったやり方で生産性を上げる努力が必要になってくるだろう。
 
●キュレーションと弱い紐帯
人々のニーズが多様化した結果、Amazonのような無数の商品を扱う企業が台頭し、品ぞろえの少ない街の本屋は姿を消しつつある。一方で、人々は情報に飢えており、昨日までは全くの無名だったものが、途端に表舞台に立ってもてはやされるようになることもある。一過性がありつつも持続性はあまりない。とはいえ、毎度毎度ヒットの打てるものを提供できる人は限られているため、21世紀はキュレーションの時代になる、とずいぶん前に某雑誌の副編集長の方から話を伺った。検索結果の表示順を利用した名ばかりキュレーションサイトの炎上はこのことを思い出したが、おそらく彼が言いたかったのはこういうことではないだろう。
口コミサイトは今や当たり前だが、その人の好みを全く知らないまま盲目的に信頼することを安易にできるかというとそうでもない。だからこそ点数の高さが重要になってくるのだろうが、その点数も某口コミサイトのように操作されていることもあって、参考程度にとどめたい。となると、買い物をすべて一つの店で買うのではなく、肉ならこの肉屋、野菜ならこの八百屋など、特定の分野でヒットを打てる人を知っておく必要があるのだろう、と思う。一方で、自分の足を使って探しだす行為も必要で、自分のアンテナに反応した店に出くわしたら検索しなくても飛び込む勇気も必要かもしれない。そこに飛び込んでみるとまた知らなかったことを知れるようになるし、新たな出会いが生まれる。
 
***
 
 
便利になればなるほど、自分の目で確かめることが大切なのだなと改めて感じた1年だった。安易なものに身をゆだねるな。Do not go gentle into that good night.

2016年に読んだ本のこと

2016年も色々な本を読んできた。特に印象に残ったものを紹介する。
 
昨年はこちら。
 
1.ガイトナー回顧録
昨年はイラク戦争がなぜ検証されずに、間違った方向に進んだのかについていくつかの本を読んだが、今年は金融危機についての回顧録(ポールソンおよびガイトナーバーナンキは未読)を読んだ。金融危機については既に市民側についての本は「誰がアメリカンドリームを奪ったのか?」や映画マネー・ショートで解説されているものの、中枢の政策側が何を考えて動いていたのかはほとんど知らなかった。何故一部の金融機関は救いながらも、リーマンブラザーズは救わなかったのか。中でもガイトナー回顧録は著者自身が考えるアメリカとEUの危機に対する考えの違いを解説していて興味深い。ガイトナーはEU側は旧約聖書的考え(約束を守らないものは罰を与える)が主だが(別の考察ではEUといっても南欧は比較的緩やかに考えているようだが)故に、投資家を安心させることが出来ないために、動きがいつまでも安定しないのだという。恐らく大部分の人が賛成するだろう道徳にのっとった行為、というのが市場にとっては逆効果というのは感情的に相いれないものの、信用という目に見えないものを扱うには別の方法をとることになる。(くしくも、ギリシャに対する緊縮政策に対する強硬的なEUの姿勢が上手くいかないことによって証明されてしまった)イラク戦争についてはイギリスの当時のブレア政権のアメリカへの協力姿勢の動きを追った「倫理的な戦争」で批判されていた、ー側近だけの意見に限られたことが問題の一つとして提起されていた。
けれども金融危機においては、財務長官をはじめとするチームが大統領からの信頼のもとに一丸となって進められたことが震源地ではありつつも、早く回復したことの要因(とはいえ、詳細は議会や党内でもめ、途中で政権交代もあったものの)の一つ(アメリカの力強さ)といえる。

 

ガイトナー回顧録 ―金融危機の真相

ガイトナー回顧録 ―金融危機の真相

 

 

2.石油の帝国
世界最大のエネルギー企業エクソン・モービルがどのような企業なのかを2人のCEO(レイモンドおよびティラソン(トランプ政権下国務長官予定)体制での出来事を紹介している。エネルギー企業は日本における東京電力の事故の大きさでもわかるように、あまりにも生活の身近にあるために普段は気付かないが、事故が起きた時のやり玉にあがったり(本書では原油流出事故を取り上げている)、温暖化の主原因として非難を浴びたり、発展途上国では不安定の政府よりも堅固なセキュリティを有するなど目立つがゆえに、様々な方面に対応する能力が求められる。特にそのトップとなれば対国との交渉も必要となる。その範囲は国境を越えて帝国といっても間違いはないだろう。2人のCEOの違いも面白く、レイモンドは典型的な専制君主だったが、ティラソンは自身がボーイスカウト出身だからか、周りのやる気をどのように高めるかに主軸をおいているようにみえる。温暖化対策についても、徹底的に対抗していたレイモンドに対し、ティラソンは世論を注視しながら柔軟な対応をしている。次期トランプ政権の国務長官として名前が挙がっており(とはいえ議会の承認がないと正式には認められないが)実務経験はないとされているが、選ばれた暁にはその石油の帝国でみせた手腕をいかんなく発揮することは想像に難くない。

 

石油の帝国---エクソンモービルとアメリカのスーパーパワー

石油の帝国---エクソンモービルとアメリカのスーパーパワー

 

 

3.ポーランドのボクサー
硬い本が続いたので、後は小説を紹介する。とはいえ、この本の背景は今の世相を表している。作者の祖父はアウシュビッツで生き残った。彼自身は戦争を経験してはいないが、祖父の言葉を通じて彼のオリジンが経験してきたことを疑似体験しており、また現在にも残る民族間の迫害について何を感じたかを書いている。また、ジプシーというnamelessな存在への憧れもみられる。日本にいると、特定の民族に属しているだけで迫害を受けたり、既に生まれた国がない人ものの、昔あった国への思いは強く持っているなど、身近に考える機会がないゆえにただただ目の前の悲劇に翻弄されることが多いが、すでに半世紀以上経過した戦争が遺したものは引きずられて今に至ることがよくわかる。決して終わってなどはいないのである。
また、作者はジャズマニアらしくいくつかの小作品の順番を並び替えても読むことが出来るように作っており、日本版は原文とは違う構成になっていてそれも興味深い。(文の流れも音楽のように感じるところもある)

 

ポーランドのボクサー (エクス・リブリス)

ポーランドのボクサー (エクス・リブリス)

 

 

4.春にして君を離れ
ミステリーの女王、アガサ・クリスティーが別名義で出した本で、新聞でこの本を知るのだが、今年は結果的にこの本の内容に近いものを、テーマは違うが何冊か読むことになった。例えば絲山秋子「薄情」では内なる自分との対話は行っており、自身が外の人間に対して薄情な態度をとることに自覚的である(けれどもそれを変えられない)し、木内昇「光炎の人」では好奇心旺盛の技術者が自分の得意な技術を実用化したいあまりに、時代に飲み込まれてしまう話だ。このアガサ・クリスティの本も、献身的な妻として長年家族をサポートしてきた主人公が実は他の家族や友人からは正反対に受け止められている。自身との対話の中で自分が正しいと思うあまりに周りの意見に耳を傾けないで生きてきたことは本人にとっては問題ないのかもしれないが、西川美和永い言い訳」で書かれているように人生は他者であり、社会的な存在として生きるためには他者の存在が不可欠だということを痛烈に感じさせるものだった。誰も死なないが、形を変えたミステリー小説といっていいと思う。

 

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 

5.ペップ・グアルディオラ 君にすべてを語ろう
現在はイングランドプレミアリーグマンチェスターシティの監督を務めているが、この本はバルセロナからバイエルン・ミュンヘンに移った時の1年間に監督に密着して書かれた本である。新たなチームに移った時に求められることはいうまでもなく勝利することだが、選手はもちろんチームによって異なるし、対戦相手も異なる。前日本代表のザッケローニ氏に通訳として連帯した矢野大輔「監督日記」では、監督の意向と選手の考えとの対話が最後まで浸透しなかった印象が残ったが、この本の中ではグアルディオラが選手のほとんどから信頼を受けている様子が見られる。おそらくそれは彼の勝利への執念への行動が選手を動かしたのだろうし、また、リーグ内で優勝が決まった後に、あっけなく連敗してしまうし、彼自身も気の緩みがあったという、組織的なスポーツが持つ繊細さと一人のスターで勝ち続けることの困難さについて教えられる一冊だった。

 

ペップ・グアルディオラ キミにすべてを語ろう

ペップ・グアルディオラ キミにすべてを語ろう

 

 

 

みえぬものこそ

アメリカの大統領選が終わり、少しづつ日常に戻りつつある。正直なところ、接戦まではいくと予想していたものの、それでも6:4くらいで勝つと思われていた候補者が敗北する、(総数では勝っていたようだが)という光景に呆然と立ち尽くす以外なかった。
 
そもそも選挙権がないのにやきもきしてもどうしようもない。それでも相手の動きを気にする気質としては気にならないわけがなかった。刻々と流れるタイムラインには落胆をしながらも受け入れつつある人と、怒りを爆発させている人が入り混じっていて興味深かった。私はどちらかというと前者だったが、それでもタワーで会談したり、100日プランを聞いているときに胸騒ぎが静まらないことに気づき、理性的には受け入れつつも、ざわざわとした落ち着かない感情が腹の底にあったのだと知る。
 
自分の目に見えているものが全てではない、ことは街灯の中で探す鍵に例えられる。探し物は街灯の明かりが見える範囲でなく、明かりが見えていないところにあるのかもしれない。それはバイアスという言葉にも言い換えられる。
過去には人種の坩堝といわれ、もはやアメリカ人=白人ではないことは、今の大統領が2期選ばれたことからも明らかではあるが、一方で映画のキャストでwhitewashingが問題になったり、PC上の問題でこれまで当たり前のように言えていたMerry Christmasといえない窮屈さも発生していた。
 
有力候補者の劣勢が伝えられると隣国の移民情報がまことしやかに伝えられ、他の国に移ることを考えるつぶやきが流れてきたのを見ながら、動かない人のことを考えた。自由に動き回れることは誰にでもできるわけではなく、場所に属さない能力や潜在力を持った人が多いだろう。それに比べると動かない人は保守的な要素を兼ね備えているはずだ。
 
断絶や分断という言葉がまことしやかに伝えられているが、現実はどうだっただろうか。明るいところだけを見ていなかっただろうか。もし、断絶や分断という言葉を使うのであれば、それはその人自身が日が当たらない存在を断絶もしくは分断していたのかもしれない。
 
今回の結果はまだ多くのものが見通せないが、良い面としては、日が当たらない存在の代表者が選ばれた結果、その一挙手一投足にメディアを通じて注目が集まり、吟味されることだ。勝者側も、完全な勝利ではなく、薄氷のものだった故に、意見は無視できない。(上下院のねじれは解消しているが)
 彼の政策について色んな人があれこれ言っているが、気を付けなければならないのは、批判する立場の人が感情的に彼自身を嫌っているか、それとも、内容に対して批判が向けられているか、である。日本の専門学者の中でもこれは起こっているので意見を参考にするときには十分注意する必要がある。専門家であるならば、個人の感情をそのまま現状に向けてはならない。冷静な判断が出来なくなるからだ。(感情的な推測は原文の誤読につながる。一番いいのは言うまでもないが原文を読むこと)
 
 
だらだらと思うことを書いてみたが、最初にかいたように、自身ではどうすることもできない。けれど、川の上に浮かぶ木の葉のように翻弄されたくもない、となると、自分にできることはいざというときに動ける筋力をつけることだった。
 
今回の記事を書くきっかけになったもの

引き出しにしまうもの

少し前に読んだ金原ひとみの「持たざる者」の中にこんなセリフがでてきた。
人生の中で何か、強烈な感動を一度でも体験した人って、その時の記憶だけで生きていけるんじゃないかって気がするの。
例えばグランドキャニオンとか、マチュピチュとかに行ってすごい景色を見たりとか、そういう瞬間的な感動。そういう一瞬の記憶がそのあとの人生の糧になることってあると思うの。」
 
マチュピチュやグランドキャニオンへ入ったことがないけれども、旅行に訪れた先で瞬間的に覚えた感動はいくつもある。私の場合それは特に旅行に限らず、絵に描かれたものについても同様だった。
最近見たものだと鈴木其一の「風神雷神図襖」に描かれた墨は紙の上に描かれているのに、あたかも水に垂らした墨汁をそのまま閉じ込めたように見えたし、速水御舟の「翠苔緑芝」の紫陽花の花弁はいつまでも揺れ動いているようにみえる。これらの絵を見た時に感じた強い印象は多分強烈な体験、と感じるものはあくまで個人によってかわってくるのだろうし、時によっても変わってくる。ある本を時間をおいて再び読んだ時に、以前読んだ部分と異なる場所が印象に残ったときのように。
 
***
 
食べるために生きるのではなく、生きるために食べるのだ、と頭で考えている私にとって、Foodie(食べるのが好きな人)のことは自分とはまた別の次元に生きているようにおもっていた。とはいえ、最近は何かを食べるときの選択肢を考える手間を省くために調理をしなくてもすぐに手に入るものを選択していた。何かを食べればおなかは膨らむけれども、いつもと違うものを食べたいという欲求が沸き上がっていた。おなかが膨れるものを食べても、おいしいものを食べたい。食欲の満足度が食べられる量から違う尺度に変わりつつあるようだ。
 
最近ある食の化身のアカウントをフォローしたところ、見事なくらいに四六時中食べ物についての話題を話している。当然ながら現実には食べるだけで生きているわけではないのだろうけれども、こういうときにこの食材をこうして食べたい、と感情あらわにつぶやいているのを見かけて見ているこちらも自然と「本当にこの人は食べるのが好きなのだな」と感じる。
 
私の場合は、目で楽しむ何かだったけれども、その人にとっては味と香りなのだろう。違いはあろうが、そこに優劣はない。
 
昔使っていた引き出しには手あたり次第持っておきたいものを突っ込んでは机の中がぐちゃくちゃになって後で整理する羽目になっていた。
嗜好の引き出しは見えない分たくさんのものが入れられる。雑多なものがあればあるほどその引き出しは豊かになる。

茨城県北芸術祭(山側)に行ってきた。

11月20まで開催中の茨城県北芸術祭に1泊2日で山側に行ってきた。
前回は海側に行った。
 
山側も海側同様巡回バスが出ているものの、広範囲に点在しているため、ダイジェストバスツアー(じっくり山コース)を利用した。
 
出発は9時30頃で、帰りは19時の予定だったが、途中予定よりも遅れがあったものの帰りがスムーズだったため、20分ほど早く駅に到着した。
 
メリット
見るべきところが点在しているので、効率的に回るのには適している。
添乗員さんがあらかじめ作品がどこにあるのか見落とさない様に場所を教えてくれる。
 
デメリット
あらかじめ予定時刻が組まれているため、各場所で見学時間が決まっているので、場所によっては十分に見られない。
旧家和楽青少年の家は並ばないとみられない展示があるので注意。
 
その他
海コースと山コースはそれぞれ人気が出てきており、満席が続いているという。(ので当日申し込みはせずに事前に予約したほうが吉)
10月中旬から後半になると袋田の滝など芸術祭とは別に紅葉で観光にくる人も多く予想されるため、見学と混雑が予想される。(私が訪れた時はまだ余裕があった)
山コース、海コースはともに同じ弁当になっている(飲み物は各自で用意)
 
 
ダイジェストツアーの山コースには含まれていなかった常陸太田駅周辺の展示は最寄り駅のレンタサイクルで回った。(4時間まで300円)およそ4時間かけて20㎞ほど回ったが(松平町休耕地、管理センター、パルティホール、鯨ヶ丘地区)、休耕地や管理センターまでは起伏がある。また、自転車は電動つきではあるが、1時間ほどしか持たないので、利用する場合は比較的近い鯨ヶ丘地区とパルティホールまでとした方がよいと思う。
 
 
以下印象残った展示・場所を紹介
 
 
Black field(Zadoc Ben-David) 旧家和青少年の家
白い砂の上に、おびただしい数の針金で作られた草木が植えられている。正面は黒だが、裏側は鮮やかな色が描かれている。
見る場所によって刻々と移り変わっていく景色は壮大で、草と同じくらいの大きさになってこの原っぱに紛れてしまいたい気持ちにもなった。
 
旧上岡小学校
NHKの朝ドラや Girls und Panzer(映画)などのロケ地として利用されている旧小学校。以前箱根の旅館に宿泊した時に、この小学校と同じような作りをしていたことがあってとても懐かしく、また木に年月を感じさせる重みがあると同時に温かみのある場所だった。(校庭が駐車場となっていて、建物全体を写真に収められなかったのは少し残念だった。)

https://www.instagram.com/p/BLVOJqhAFJD/

#garupan

(映画を見た人ならわかるあの人の席)

 
道の駅 常陸大宮 かわプラザ
道の駅にも作品があったのだがなんといっても、丁度太陽が沈むころに到着して、真っ赤に焼けた太陽光が雲を茜色に照らしていた。刻々と変わりつつある空の色に思わず見とれてこの場所で多くの写真を撮った。前にも書いたけれども一過性のアートよりもやはりその場所にある自然が作り出す風景には畏敬の念を抱かざるを得ない。と感じさせられた時間だった。
 

https://www.instagram.com/p/BLVc7jsgQPx/

Instagram

(日が落ちるまで1分おきくらい写真を撮っていたような気がする)

 
鯨ヶ丘地域
原高史 sign of memory
鯨ヶ丘の名はその地域が鯨のような形をしているところから名付けられたという。また、丘という言葉がついているように、駅から歩くと小高い丘の所にあるレトロな商店街になっている。
通りに面する建物の窓にはピンク色を背景にして建物に住む人たちにインタビューして得られた生の声が印刷している。土地の歴史から、建物の歴史まで。今住んでいる場所をどのように感じているか。おそらくインタビューを映像にとってそれをそのまま見せるという形式もあるだろうが、それよりも、窓に印刷した文字を読ませるという手法は意外と見る人に文章を読ませる時間を与えていて、映像のように窮屈ではない。また、建物ごとに書かれる言葉は変わっているので、道路に置き忘れたような立て札よりも興味を持って見ることが出来る。
 

https://www.instagram.com/p/BLXkW8pAePr/

鯨ヶ丘 #kenpoku

旧上岡小学校と同じくロケ地として利用できそうな雰囲気のある場所だった。
 
 
様々な人の属性の人たちのある日の一日のタイムラインを色分けして展示する。311のものだったり、新しい命が生まれた時だったり、まもなく死に向かう人であったり。どこかで必ず経験しているだろう一日のタイムラインを眺めると、人はそれほどかけ離れた生活をしているのではないな、と思うのだった。

https://www.instagram.com/p/BLX0-I_gqiD/

生と死のtimeline #kenpoku

左が死に近い方、右が出産した赤ちゃんのタイムライン。
色は違えど生活スタイルは似ている。
 
***
山と海両方見た感想としては、どちらにも良い作品があったのでできれば両方回ってほしい、ということ。
そして芸術祭だから一応の主役はそこに展示されている作品だけれども、そこにある自然には勝てないなと改めて感じる。
1日ですべて回りきるのは難しく、レンタカーでも2,3日はあったほうが良いと思う。車で回らない人は巡回バスやダイジェストツアーをうまく利用すればよいだろう。
 
まだ期間はひと月ほど残っているので週末の小旅行におすすめです。

茨城県北芸術祭(海側)に行ってきた。

少し時間が経過してしまったが、北茨城で開催されている茨城県北芸術祭(以下通称kenpokuと表記)に行ってきた。
kenpokuは大きく分けて山と海の2方面での展示がされている。
今回は海側の展示を回った。海側の展示は日立が中心で最も北が津港町になるが、上野から特急でおおよそ2時間ほどで着く。
 
基本的に広範囲に渡って展示がされているので、車での移動が望ましいのだが、土日祝日はエリアごとに循環バスが出ているし、
調べればバスを利用しても行くことができる。
 
以下印象に残った展示について紹介
 
須田悦弘六角堂) 
六角堂は311の時に流されたものの、翌年に建て直されたという。現地は晴れていたが、言われてみると確かに周囲の波は予想していたよりも荒々しい。剥き出しの岩礁が沖からの波をある程度抑えているのだなとわかる。
パスポートを持っていると場合250円(持っていない場合は300円)であるが、訪れる価値はある場所。
展示は須田さんの作品を既に知っている人ならおなじみの彫刻だが、建て直されてまだそれほど時間が経過していないにもかかわらず、がらんとした空間の中に雑草が生えている。そこに生えていることはある程度の時間が経過していることを想像させる。
海の間近に建てられた六角堂が流されるまえにどの程度朽ちていたのかはわからないが、あの場所に庵を造った岡倉天心の決断にも恐れ入る
 
AKI INOMATA(うのしまヴィラ
うのしまヴィラは循環バスは出ていないが、市内バスを利用してちかくまでいくことができる。日立駅  中央口 2番のりば 75/77番バス 祝崎下車
 
ヤドカリの殻に9種類の都市が載っている。もちろん都市の全てではなく、パッと見たときにその場所だとわかるような象徴的な建物を選んで載せているのだろう。3Dプリンタで作られたらしいヤドは都市の縮図とも言えるかもしれない。作られたヤドは実際にヤドカリのヤドとなっており、私が訪れた時は東京のヤドにヤドカリがいた。
透明な素材で作られているため、ヤドカリの守らなければならない場所は外からも見ることができるのだが、ヤドカリがこの透明なヤドを選んでいるということは、ヤドカリはヒトと同じく可視光が見えるわけでもなく、また、魚もそうなのだろう。身を隠せる一定の強度と大きさがあればヤドとして利用できるのだろう。ちなみに、ヤドカリはヤドを争うことがあるらしいが、ヤドカリにとってどの都市が最も強い都市なのだろう(おそらく全体のボリュームだと思うが)など興味は尽きない
 
※バス停と時刻表の調べ方 目的地の近くのバス停を調べる→ 近くに大通りがないか調べる。googlemapではバス停の名前までは分からないのでNAVITIMEの地図を使う。
該当のバス停が止まるバスや時刻表もNAVITIMEで調べられる。祝崎の場合は1時間に一本だった。帰りの日立駅行きも同じく1時間に1本だが、行きと帰りの時間は20分ほどずれているので、1時間20分ほどの余裕がある。祝崎から うのしまヴィラまで徒歩で10分以内で、展示の他に昼食を食べられる場所があるので、バスを利用していく場合は昼食時に合わせていくのが良いと思う。
 
芸術祭と名打っているため、表向きの目的としては各所に点在しているアートを見ることだけれども、期限が限られたアートをめぐるよりも、その場所でしか見られないものを見るという姿勢でもよいと考えている。以下そんなことを感じた場所を紹介。
 
●高戸海岸 大浜
 
ここの浜は夏にビーチバレー大会が開かれるほど賑わいがあるのだという。遠浅で静かな海、そして何より砂浜が白くきれいだった
海にはサーフィンをする人もちらほらいて(鎌倉のように混み合っていないのがまた良い)いつまでも眺められる風景だった。
 
ここには空の破片が展示されている。大風が吹いたときに空のかけらが壊れてその一部がこの砂浜に落ちてきたというストーリー。
訪れた時は夕方で昼間の晴天から曇ってきつつあった。21世紀美術館のタレルの部屋のように、天候によって印象が違って見られる作品だと思う。
 
ちなみに、この近くに小浜もあるが、こちらにも作品が展示されている。こちらの渚は美しい場所として取り上げられているという。
こちらはなかなか波が激しく、また渚の両側から波がぶつかり合う瞬間がある。なかなか見られない光景なので、面白い作りだなという印象を受ける。
 
今回訪れた時は夜の天気は曇りか雨だったが、晴れていれば天の川も見られるようなので次回晴れた夜に訪れてみたい。
 
●日鉱記念館  中央口1番乗り場60番 バス 日鉱記念館前
 
鉱山としての歴史があるJXグループの記念館。記帳が必要だが無料でみられる。
鉱物の採掘の歴史的資料を見ることが出来る。技術が進歩しても基本的な手法は変わっておらず、エネルギーを採掘するために多大なエネルギーが必要になることを改めて感じる。
採掘に使われた機材や当時採掘場近くで生活していた人の風土も紹介されている。
日鉱記念館の先には御岩神社もあり、休日は循環バスが通っている。
 
訪れたのは初日と二日目だったのでまだこれから課題が出ると思われるが、改善したほうが良いと思われること。
 
・バスの連携
バスは交通事情によって多少のずれが生じることがあるが、利用したバスの目的地の到着が遅れたため、滞在時間を少し伸ばした。
その結果次の目的地に行くバスに乗り換えることができなくなってしまった。車で回らない人にとって移動手段は限られているため(レンタサイクルはなかった)
効率よく回るには移動バスの連携が重要だと思われるので、滞在時間よりも移動場所への連携に重きを置いてほしい。
 
・公共移動手段の記載
広範囲にわたって訪れるポイントが散らばっているので、最も効率の良い回り方は車を利用することだと思われるが、現地以外の方面から見学しに来る人にとっては循環バスや市内バスを利用する手段がある。けれども、上にあげたうのしまヴィラや日鉱記念館の行き方はガイドブックには循環バスのみの手段しか書かれていない。芸術祭に訪れる人の移動手段の属性の比率(場所でいうなら県内、県外、移動手段なら自家用車、レンタカー、循環バスなど)がどの程度なのかは分からないが現代アートというくくりでいうならば展覧会に行く機会が多いが車を運転しない層も一定数いるのではないかと思っている。公式サイトは定期的に更新されているのでこれらの情報を記載してもよいと思う。
 
 今回は海側を中心に回ってけれども、次回は山側を中心に回ってみたいと思う。